星条旗の氾濫の余韻   アントニオ・ムーニョス・モリーナ

スペインで読む新聞から Puentefuente 2005年10月




日刊新聞エル・パイス 2004年9月5日、日曜日

     先日の日曜日の朝、反ブッシュ大デモ行進の始まる前の沈黙の中、通行止めにされた大通りの上空をヘリコプターは飛び回り、ヘリの音が街中に響き渡っていた。制服姿の警察官のおのおののグループは、曲がり角ごとに建てられた暴威柵のそばに立っては小さい通りを見張っていた。マ ンハッタンの中心街は、8月のバケーション時期によく見られる「空っぽになった都市」という深い静けさであったものの、再び熱くなったアスファルトの上に 落ちるヘリコプターの陰や、特例とも言える警官の数は、この一週間の間に多少の度の違いがあったにせよ、ずるずると長引いた都会の緊張の兆候を与えてい た。それらの緊張感と言うものはもしも共和党党員が泊っているホテルや、常時厳戒警備のマジソン・スクエア・ガーデンの近くを歩けばなおさらに感じられる のであった。
     無関心と幻滅感の入り混じった ニューヨーク特有の感情はすぐさまにも表立った苛立ちにかわってこのイベントを迎えた。木曜日の午前中、ウォルドォルフ・アストリア・ホテルに通じる全て の通りを通行止めにしたために、耐えがたいほどの渋滞を巻き起こしていた。制服のような黒いスーツに身を包んだがっちりした体格の大勢の若者たちはホテル の入り口に立っていた。フランコの死の目前でさえ、マドリードの大学都市でこれほどの沢山の警察官を見たことは無かった。青い制服に野球帽を被り、ピスト ルや警棒を幅広い腰周りにぶら下げている何百もの警官たちがいた。一瞬、口笛が鳴ったかと思ったら、僕の方向に警察官が駆け寄ってくるのを見たときには、 30年前のマドリード学生デモのときの始まりかと思えて、飛び上がってしまった。
     木曜日には警備員たちの表情には 更に警戒感と緊張の色が増していた。逮捕状も無いままに市警察の牢獄に入れられていたおよそ千人にも及ぶ反ブッシュ表明の逮捕者たちに関しては、おそらく は選挙キャンペーン集会の期間中、なるたけ騒ぎを退けたいという意図だったのかもしれない。しかし、木曜日の午後には熱血判事が直ちに彼らの解放を命じ、 もし従わなければ、訴訟を起こすと共に、一人の逮捕者につき1000ドルの罰金を市庁に課すと脅かしたのである。
     スペインではデモ行進というものは雑然としたものだが尊厳のあるものでもある。ニューヨークの今回の日曜日のデモ行進は、ある瞬間においてはまるでハローウィーンの仮装行列かとも思える時があった。八月のむし暑さは衣装の悪ふざけを増徴するもので、ご うごうたる権利の主張や平和主義者の内容のプラカードや垂れ幕は、ブッシュの風刺画やユーモラスな絵、言葉遊びのスローガンのものに比べるとその数は下 回っていた。 ディックと言う副大統領のなまえと、男性の身体の一部分との言葉の一致を下劣でもなく、視覚的・言語的に用いて遊んでいた。合衆国の内陸に 住む共和党員たちにとって反・ブッシュデモに参加した人々のイメージというものはまさにニューヨークの無宗教ジャングルの悪夢とも思えただろう。政治極 左・右翼の人、厚顔な同性愛者たち、ピンク色に染めた小型愛犬を連れて歩くピンク色の網タイツがたまらなく好きな女たち、不敬虔なる芸人たち、70年代に市民権利闘争に闘ったデモ・ベテランの男たちや女たち、更に金槌、円形鎌、金色の星のついた赤い国旗を掲げた共産党員も含まれていた傘の骨とボール紙の切り端で作られた極原始的なポスターに、「祖国 あるいは 死。フィーデル(カストロ)のキューバ」とスペイン語で書かれたスローガンを掲げていた、肌の黒いアフリカ人らしい者までいた。
     ジョージ・ブッシュ支持派の無数に及ぶ大金持たちのからかいの行進が高台を占めていた。男たちはタキシードかあるいは燕尾服、女たちはイミテーションアクセサリーつきの髪飾りとハイ・ヒールに夜会用の正装ドレスを身にまとっていた。『すべてを私有化させようではないか。』 『もっとゴルフ場を増やそう、さらに公立学校を減らそう。』『われわれの石油企業に連帯しよう。』  『もっと急いで森を伐採しよう。』と彼らのプラカードには書かれていた。それぞれの街角では、警官たちが通行止めのために備え付けられた暴威柵に寄りかかりながらサングラスを通して様子を監視していたのである。
     ひとりとしての民主党員活動家が 居たなら、このデモ行進の成功は確かなる不安を与えただろう。共和党にとってはライバルの(民主)党が過激主義であることを証明するかのように奇人変人で 危険分子的な人々のイメージに的を絞ることによって、どっちつかずの反動主義や臆病な投票者たちの一票を得るための脅しは容易いことだった。生まれて初め てニューヨークにやっていた多くのの共和党員にとっては、選挙演説集会内部の催しはマンハッタンの通りで起こる出来事とは、ちょうど180度違った世界であった。ニューヨークは汚れていて、動きが激しく、耳障りな騒音をかもし、異教思想を匂わし、市民の8割が民主党支持者であったが、マディソン・スクウェア・ガーデン内部におい ては、愛国主義、宗教深さと家族の絆を尊い、巨大なるショッピングセンターのようにその内部にはかつて見たこともない無数の赤・青・白の国旗、風船など、 その他のありとあらゆるものというものがあふれていた。テレビの前に座ったひとなら、ただただ恍こつと時間が過ぎていくのであった。すべての演説には崇拝 的なる神の祝辞への祈願が行われ、軍隊への確固たる信念、この国に到着した移民たちは、無我無心に働き、この国の立法を尊重し、ついには映画スターにな り、地方知事となり、事業家となり、アメリカ合衆国政府の役員となるのだ。言葉による酔いしれというものは、国旗によるものと同じくらいに驚異的で、集会 に参加した人々を恍惚とさせたり、ある時にはへんてこな気分とさせたり、また別なときにはこの二つの気分が同時に感じたりさせるものだ。  そ こに小型カービン銃を持った兵士たちに警護されながら、制服の男たちに掲げられた星条旗が入場してきた。すべての人々は立ちあがり、美しい黒人が歌うソウ ル調の国家を聞いている間、胸の上に手を当てていた。アーノルド・シュワルツネッガーが演説し、彼自身がアメリカン・ドリームの勝利の典型であると自己紹 介し、そのあと台湾出身である住宅環境女書記長は自分自身を「アジア平和のアメリカ人」と定義したことについては、中国人には属さないという言葉を捻じ曲 げたことで、外交対立を挑発するのであった。同様に『アメリカの確約』の夢は続き、幼年期にカストロ政権もとのキューバから逃げてきた少年が、上院議員と なって後に名の知れたイスパノ系の顔立ちをした高官となった物語の演説をした。 
      クラクラと目まいのする、美辞麗句を弄した何時間がすぎて、焼入れのさめてしまったディック(失礼)・チェイニーと、感傷的で高慢 な人受けされたい主義のブッシュを観たの後、彼らが余りにもくどくて、しつこ過ぎるほどに言い続けていた殆ど全てのことが、まったく正反対であると言うこ とを忘れないようにするために努めなければならなかった。というのもブッシュとチェイニーは、ジョン・ケリーには度胸が欠けていると非難したものだが、で も、ベトナムの戦場で戦っていたのはジョン・ケリーであって、その間、この二人は軍隊への奉仕活動からスルスルと抜け出していたのであった。ブッシュは一 見、とても気さくなどこにでもいそうなありふれた、進取の気性に富む成り上がり人や慎ましやかな庶民人に近いような人物として売ってはいるが、実のところ ニューイングランドの特権を与えられた家族の出なのである。彼の政治・経済政策は、恥知らずにも大金持ち階級の人々に利を得させたし、ブッシュは、民主党 が公金を浪費していると訴えていたが、なんとこの公共金については共和党政権時代に赤字が続いていたものを、ビル・クリントン(民主党)政権時代に公共貯 金を満たしたのであった。対ドイツ・ナチへの戦い、あるいはノルマンディ上陸により、ヨーロッパを取り戻した英雄物語を例にしては、まるでイラクの手に負 えない惨事であるかのように言及し、ブッシュが何度も繰り返し言った、「対恐怖への戦い」と言い戦い始めたときよりもずっと世界の安全に関する保障は無く なっているのである。
     共和党員たち立ち去り、金曜日の 切迫緊張感の後、『勤労感謝の日』の月曜日まで続く週末の静けさが街に残ったニューヨーク・タイムスが『星条旗の大嵐』と、名づけたこの集会の後、最終的 な選挙運動がピークを迎える時まで、ほんの束の間の静穏の休息が来るのであった。ニューヨークにおいては頻繁に出会うことがある民主党派寄りの人々の間に おいては、落胆があった。それはアンケート調査によるものや、おそらく、それはブッシュの共和党が勢力的かつ効果覿面にケリーの決断力不足や度胸不足とい う弱点を集中して攻撃しているということであった。このめまぐるしい一週間のあと、ホテルの従業員 はチップの総計をしてみたが、結局のところ、この集会による総額は実にしみったれたものであったのだ。ニューヨーク・ポストは,ホテルのベット・メイキン グとルームボーイを対象に調査したアンケート調査においては、共和党代議士たちは、チップを出すことに筋金入りの抵抗があったようだ。それはチップを仲間 で分け合うのが義務となっているこのニューヨークにおいては、ゆすりまがいのことでもある。それでも彼らはチップを置いてはいかなかったけれど、『あなた に神の恵みがあらんことを』という台詞だけは決して怠ることはなかったと、ドアマンは語った。


Puentefuente 2005年8月  Tras la tomenta de banderas  Antonio Muñoz Molina ©2005 puentefuente 

No hay comentarios:

Publicar un comentario