El zapato

2008年3月15日 Fragmentos puentefuente


ピカソの作品を手にした人が、その作品が正真正銘であるかと本人に聞きにたずねたとき、ピカソは「僕よりもジュゼップのほうが僕の作品について知ってるから、彼に聞いてくれ」と答えた話をどこかで読んだ。そのピカソ研究家、詩人、小説家、劇作家、随筆家、翻訳家であったジョセップ・パラウ・イ・ファブレが2月23日にバルセローナで他界した。以下は作家で故人の友人、フアン・ゴイティソロによる追悼文。
ジュゼップ・パラウ・イ・ファブレ(バルセロナ、1917年生まれ)の消滅は、単にカタルーニャのみならず、イベリア半島全体、また多種多様で複合したヨー ロッパの文学にまで影響を及ぼし、暗翳をもたらすものだ。詩人、叙述家、戯曲作家、随筆家であった彼の作品はとても広大な分野にわたり、たびたびジャンル は重なり絡み合う。詩は物語や舞台作品に浸透し、驚異的なみずみずさと活力を吹き込む。Foix、Espiriu、Ferrater、Maria Mercè Marçal、Gimferrerと共に新しい詩の復興の中心核となり、マチャード、ヒメネス、アルベルティ、セルヌーダ、バレンテたちの詩となんら劣る ものではなかった。彼の舞台作品の豪胆は、ジュアン・ブロッサと共に、ダリオ・フォの作品と張り合う。『La confessió o l'esca del pecat』(告白あるいは罪の火口)では、不敬虔な情的表現力で僕たちを誘い込み、偉大なディドロのものに近い。『La tesis doctoral del diablo』(悪魔の博士論文)の物語の数々は、ボルヘス、モンテロッソ、ヴィルヒリオ・ピニェイラの最高傑作の短編小説と同系統だ。この哀しい日に彼の作品の数々を思い出すときに、忘れてならないのは、甘美なる『Contes de Capçalera』と、誠実、有益なる友情関係を保ったピカソについての『Doble ensayo sobre Picasso』 (ピカソについての二つのエッセイ)だ。
   パラウについては、バルセロナ大学法学部に二年間足しげく通っていた時期に、聞き伝えに知っていた。平々凡々とした、順応主義的なその当時の文学界の時 代に、彼の評判は、反逆で、フランスかぶれ、無神論者、性にとりつかれた者というものだった。伝統を重んずる保守的な人々から見れば、それらのすべてが煽 動的だと非難する意見に僕が加わる代わりに、彼がぼくの刺激剤となり、永続的な感嘆の的となった。嘘でありながらパリで見つかったという非合法の刷のお陰 で、ひっそりと出回っていた『Los poemas del alquimista』 (錬金術師の詩)を読んだときの感動を僕は忘れることが出来ない。フランコ支持派と折衷主義者の検閲によってつくられた偽文学とつまらない報道の中にあっ て、パラウの詩の一行一行を読むことは、僕の若かりし日の読書の中でも、もっとも深みのある体験だったのだ。「La sabata」(El zapato靴)を何度も読んでいるうちに暗記してしまった。僕は彼のようになりたかった。文化的、肉体的、政治的な自由に応じ、《最悪なる半島》を決定的に捨てて、パリに居住したかった。
   ついにその思いがかなったとき、――リヴ・ゴーシュ地区への僕の初めての遁走は1953年の秋にさかのぼる――共通の友人を介して彼の居場所をすぐにみ つけ、それ以来僕たちの友情のきずなは50年以上も長引くこととなった。パラウは、ボードレール、ランボー、マラルメ、アポリネール、シュールレアリスム の作家たちの作品を僕に紹介してくれた。彼はアルトーやオクタビオ・パスの友人だった。広く豊かな彼の知識は、僕の片びっこで乱雑なる文化知識とは対照的 で、世界中の多種多様性に解き放たれた個人図書館をつくり上げる励みとなった。
  『Coto vedado』 (禁猟区)の中では、パリでの僕たちの友情の年月について記述した。フォワイエ・ド・サン・ジェネヴィエーブでのつつましい昼食の数々、サン・ルイ島の彼 の屋根裏部屋への訪問、サン・ミッシェル大通りやサン・ジェルマン・デ・プレのカフェでの会合などである。彼の文学への自由なる見方は、不屈なるすべての 理論の簡略化で、僕の世代の仲間たちのイデオロギー化に対する平衡錘として役立つものだった。確かに、どのようにしてルカーチ学説と『運命論者ジャックと その主人』や『ブヴァールとペキュシュ』の読書を組み合わせられるのだろうか? 何年間に渡った迷いや見解の相違のあと、パラウの影響で、作家たちの溜ま り場ガリマールにいたことによって、自らの妨げや障害としてのしかかっていた文学への未開なる知覚から僕は解放されたのだった。
   パラウは1961年にバルセローナに戻った。そのときから会うのは時折となった。最初はパリで、その後は僕たちの生まれた街だった。それでも彼という人 間、作品、彼の芸術や道徳に関する非慣習主義に寄せる僕の深い敬意は益々強いものとなった。今思い出すことは、彼の国境なき万国性を探求する鋭敏なる観察 力だ。それは主体的観念の国家主義についての対蹠地<ちいさい文脈>(Kundera dixit)だ、
「中世の最も偉大なる錬金術師たちの中の二人である――リュイとヴィラノバ――がカタルーニャ人であって欲しい。僕たちの国の人々に、もう少しじっくりと考えさせるべきであったのではないだろうか。うちうちなる因襲的な自称カタルーニャ哲学と理性(Seny)と呼ばれる派と並んで、狂気に満ちたもうひとつの伝統としてそびえるもの、それが錬金術なのだ。それが我々に万国性の位を与える唯一のものなのだ。それが人間の偉大さに一致する器を見つけるためのただひとつの道なのだ。」
  カタルーニャとヨーロッパの作家パラウ・イ・ファブレは、絶え間なき近代性を与える国境なき世界の者なのだ。
(2008年2月24日 エル・パイス新聞) 翻訳・小田照美

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