ラス・メニーナス フェリックス・デ・アスア

Puentefuente 2004年12月

1000年の中で一番優れた視点

ラス・メニーナス

フェリックス・デ・アスア

EPS週刊エル・パイス1202号 1999年10月10日 特集・「ミレニウムのなかで卓越したもの」から抜粋


   モナ・リザが、この一千年期の中で最も大衆的な絵画であることを否定するのは滑稽な事かもしれない。というのは、単に大群衆の観光客が押し寄せ、厳重に警備員が見張っているために、鑑賞することを妨げてることだけでも充分な理由だし、又同じくTシャ ツ、野球帽、キーホルダー、シャンティ・ボトル、あるいはこの絵によって気品高くなったその他の商品が何トンも売られているからだ。しかし、モナ・リザが 千年期において、最も優れた絵画であることを拒む権限を僕達は与えられている。それはフェラーリの主と同じような、アノ慈悲深い微笑みが、実のところは悪 辣であったのだ、と『L.H.O.O.Q.』(この新聞のわいせつ言語防止規制により、翻訳することは出 来ません。)という作品で、マルセル・デュシャンが暴露したときから誰もが承知の事実だからです。それに対して僕達は『ラス・メニーナス』が、1000年 期において、最も優れた絵画であるということをたくさんの理由によって肯定可能ですし、表明します。それはただ、まだ誰も『宮廷女官たち』の絵柄つきパン ツをはいて歩いてないということだけではありません。それらの理由の中でも最も知られていない一つは、この卓越した絵画の中で、べラスケスは未来において の資本主義社会の視点がどのようになるかということを精確に描写したことです。ほんの少し大げさに言いますと、ベラスケスはテレビ本来のそして不可欠な電 気部品を取り付けなくても、テレビの基礎的原理を分析できるよう考え付いたのでした。

    『モナ・リザ』からは鑑賞者を見つめる瞳は二つだけということに注目したことでしょう。ところが、『ラス・メニーナス』にははっきりと確認出来る24 の目があります。その中の10個以上の瞳は鑑賞者を見つめています。別の言い方をしますと、一人の観衆がもう一人の観衆をゴールデンアワーに観ていて、誰 も彼等のどちらが本当の観衆であるのかわからないのである。これらの全ての瞳は、幼子が足蹴りしても平然としてる犬の閉ざされたまぶたと対照的であり、そ して長い年月にわたり何百もの犬がテレビの前で穏やかに眠っている光景の予見でもありました。前に何故テレビといったかといえば、ラス・メニーナスのキャ ンバスは布の基盤ではなく、テレビのブラウン管のようなものだからです。何がそこに出てくるのでしょうか。テレビ番組のディレクター(ベラスケス)は、ス タジオにいて、場面配置の準備や俳優達と主人公である金髪の少女に指示をしているところに、(スポットを当てるために電気工が階段のところに立ってい た。)何の予告もなしにテレビ局長と人事担当女局長がセットフロアーに入って来たのが、巧みに奥の鏡に映って見えます。僕達はこの場面の脚本の続きを想像 しなければなりません。「どうかね、ベラスケス君。」「大変結構でございます。局長」「君の番組は面白いよ、ベラスケス君。たくさんの視聴者が見てるから ね。」「それは大変有り難いことです、局長。とても有能なスタッフと一緒ですから。」「ウィーンのためのシリーズを用意してくれたまえ。でも俳優の数は減 らしてくれよ。なんたって皇帝達はケチだからね。」「ハイ、かしこまりました、局長、早速準備にかかります。」人事女局長は金髪の少女を優しくなでた。デ カルトが我々の日常生活の実体験についてこと細かく疑い始めるずっと前に、ベラスケスがレアリティ・ショーの形で番組そのものの筋書きのように、制作の 真っ只中、突然の訪問に吃驚した場面を扱ったからこそ、現代ではこれらの場面は特別変わったものと感じないかもしれない。このような理由によって、もう何 十年ものことになるけれど、鑑賞者がもっと現実的に観れるようにと、プラド美術館の管理者は向かいの壁に鏡を設置しています。実際のところ、ガラスと水銀 の表面に繰り返される映像は、観賞する時にどこか心地の悪い筆のタッチを見えなくして、テレビの映像そのものとして楽しめる結果となりました。そうして、 究極の科学証明と共に地球における初のテレビの場面を褒め称えることが出来るのです。現代という時代において、現実の映像はどこにも存在せず、僕達が現実 と呼ぶ全てのものは、幻影の幻影であるとベラスケスは証明したのでした。

     このベラスケスの現実あるいは真実形態の証明を明らかにするための超人的な現代的視点の直感と比較の仕様がないとはいえ、特に幾人かのテレビ・ディ レクター達が行なった番組が、後に非常に興味深い発展を繰り広げる結果となった事はいうまでもありません。そのうちの一つは、『ザ・ショー・オブ・ツゥ ルーマン』で、時代錯誤のディレクターの立場は、どう見たところで何か物足りなく、(スコラ哲学のように、トットとセットから出てっちまえ!)また、ピカ ソは余りにも大げさなヌーベル・ボーグ様式リメイクを制作したために、芸術映画と随筆にしか伝わらなかった。ミッシェル・フーコー*は『言葉と物体』の高名な序文の中で、【制作されたディレクター】について鋭敏に長々と語ったが、運悪く不明瞭な言語使いのために、べラスケスの明確な視点とは比較の仕様もなかったのである。これで全てお分かりいただき、誰も彼も微塵の疑いが残らないことを願います。

*フーコー(1926-1984)フランスの哲学者。

訳・小田照美

フェリックス・デ・アスア

1944年バルセローナ生まれ。詩人、小説家、随筆家。哲学博士号取得、パイス・バスコ大学で美学教授を経た後、バルセロナ建築学校にて教授。

著書
詩集
Cepo de nutria カワウソの罠(1968)
El velo en el rostro de Agamenónアガメノンのつくり顔 (1971)
La lengua de cal石灰の舌 (1972)
Farra ファラ(1983)
詩集、1968-1978(1983)
詩集(1989)
小説
へナの教訓(1972,1985)
中止になったレッスン(1978)
最後の教訓(1981)
マンスーラ(1985)
Historia de un idiota contada por el mismo 馬鹿が告白する物語(1986)
Diario de un hombre humillado 失意のどん底男の日記(1987)
Demasiadas preguntas 過剰な質問(1994)
Momentos decisivos決定的瞬間 (2000)
随筆
 Baudelaire ボードレール(1978)
原始の矛盾(1983)
失望からの習得(1989-1990)
La Venecia de Casanovaカサノバのヴェネチア (1990)
La invención de Caínカインの創造 (2001)


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ベラスケスについて

   プラド美術館は、スペインの財宝ともいえますが、人類の財宝と言って も過言ではないと思います。日本に帰る毎に必ずしていたことは、プラド巡礼と称して訪問することでした。ルーブルやその他の世界の美術館もそうですがあれ だけの量の作品があると、全部は鑑賞出来ないものです。選んで観たところで、出るときにはクタクタとしてしまいます。それは、単に広い美術館を歩くことだ けでなく、絵画を観る行為と言うものは熱量を消費させることと関連してるからかもしれません。

    たまにスペインに来る奇才の友人は、ゴヤよりもベラスケスが好きだ と言っていました。私は、ベラスケスよりもゴヤのほうが好きです。ベラスケスも素晴らしいけれど、ゴヤの黒い絵シリーズの人間の心の奥深くにある葛藤の潜 勢力を描いた絵画表現は凄まじいものがあり、そんなところに惹かれるのかもしれません。

    王家所蔵作品は1819年にプラド美術館開館で初めて一般公開されました。それまでは、宮廷内でのみ観る事が出来る名作がワンサカあったわけです。そんなことで、人生の3分の2を宮廷で過ごしたべラスケスの絵はそれまでは限られた人にしか見られておらず、彼の絵画の偉大さは余り世に知られてなかったようです。ゴヤも宮廷画家としてカルロス4世時代に描いていたのですから、彼がベラスケスの絵を観ていたことも確かです。1865年、フランス印象派初期の指導者的画家マネーが来た際に、ベラスケスの作品の前に驚愕讃美し、「ベラスケスは画家の中の画家」であると絶賛したそうです。

    ベラスケスという人には、他のたくさんの巨匠画家たちに見られるよ うな、個人の生活の波乱万丈の伝記がないとよく言われています。それは、彼が温厚で気品があり、誠実聡明だったからかもしれません。世間の一般的な先入観 と言うものは、時に肩書きによってその人を見なくなってしまうことも多くあります。でも彼はどうやら、宮廷人と絵を描くことに徹したようです。彼は、依頼 された絵を、依頼者の意向ではなく、彼の描きたいように自由に描いたのは、彼の絵に対する姿勢とフェリーぺ4世 の理解があったということもいえるでしょう。彼が宮廷人として仕えることにも注いだために、絵の作品数が少ないことも確かなことですが、又別にいえること は彼は、宮廷の人々に依頼される絵を全て請け負っていたわけではありませんでした。そして、彼は絵を描くことは考えることであり、絵の制作は知性的活動で あるという彼の主張を絵で表現した画家でもありました。

    ベラスケスは、ディエゴ・ロドリーゲス・デ・シルバ・ベラスケスといい、1599年6月6日セビージャに生まれました。父は、フアン・ロドリーゲス・デ・シルバ。母はへローニマ・ベラスケス。6人兄弟の長男で、彼の家柄は中産階級に属していたといわれ、幼年期には物に不自由しない生活だったようです。

    彼が10歳の時にセビージャでも指折りの画家フランシスコ・エレラのアトリエに弟子入りしましたが、穏やかなベラスケスには、気性の激しい師匠との生活は居心地の悪いものだったようで、その翌年、11歳からフランシスコ・パチェコのアトリエに弟子入りし、1617年画家としてひとり立ちするまで彼の元で学びました。パチェコは、画家としても有名でしたが、大変教養のある人で、彼から絵を描くこと意外に読み書きもベラスケスは習いました。独立した翌年、19歳のときにパチェコ師匠の娘フアナ・パチェコと結婚し、二人の娘をもうけました。

    1617年から1623年の間にはカラバッジオの絵に影響を受け、明暗を巧みに用いた絵画様式テネブリスモ・スタイルを発展させ、その時期の代表作としては21才の時に描いた『EL AGUADOR DE SEVILLA(セビージャの水売り)』『LA ADORACION DE LOS REYES MAGOS(東方の三博士の礼拝)』などが挙げられます。

    1623年マドリードに移り、即位に着いたばかりの若く絵画愛好家であったフェリー ぺ4世の宮廷画家として、また宮廷臣となりました。過去の巨匠たちは宮廷画家が多いものの、ベラスケスのように宮廷臣として仕えていた画家は少なかったこ とも確かなことです。ですから、ベラスケスは、肖像画を描く以外に、宮廷のありとあらゆる装飾や執務も手がけていました。そうして、宮廷内での昇進を続け ていました。宮廷画家の初期には国王の肖像画や『LOS BORRACHOS(酔っ 払いたち)』などを描きました。その後ルーベンスがマドリードに何ヶ月間滞在した際に、ベラスケスはエル・エスコリアル宮殿に行くルーベンスに付き添う役 目もしましたが、このルーベンスの滞在期間中二人は友情を深めたそうです。ルーベンスはベネチア派絵画だけでなく、ローマやフィレンツェの画家達の画法を 学ぶことを彼に勧め、1929年にはベラスケスはイタリアに留学し、ティッチアーノ、ティントレット、ミケランジェロ、ラファエル、レオナルドなどの絵画を学び、又.『 LA FRAGUA DE VULCANO(ウルカヌスの鍛冶場)』,『LA TUNICA DE JOSE(ヨセフのチュニカ)』などを イタリアにて描きました。有意義な二年間のイタリア滞在を彼は大変満喫したようです。帰国後の彼の画風には大きな変化が見られました。以後の彼の絵画は色 彩と空間の効果を探し、自由自在な筆使い、絵画は解放的になり、光で一杯になり、現代性に帯びていました。1630年代は彼の画家生涯の中では大変重要な時期となり、その時期に建築されたばかりのブエンレティーロ宮殿の王国サロンのための『LAS LANZAS(槍)』、数々の狩をテーマにした絵画、『彫刻家マルティネス・モンターニェスの肖像』や『ラ・ダマ・デ・アバニコ(扇子の貴婦人)』、あるいは、宗教画の『十字架上のキリスト』などが挙げられます。

 1649年二度目のイタリアへと旅立ちます。とある文献によれば、フェリーぺ4世は 当初、このイタリア滞在に反対していましたが、ベラスケスは国王を納得させたらしいです。国王は国王ですから、国王がダメ、と言えば留学派遣は出来ないわ けですが、ベラスケスの人徳あるいは、友人でもあった国王の配慮だったのかもしれません。またその旅はルーベンスのように巨匠兼外交官として訪問し、『教 皇イノケンティウス10世の肖像』を描いたり、イタリアの美術学校の研修、そして、絵画買収をしました。1651年 にフェリーぺ4世のために買い求めたヴェローネやティントレットなどのイタリア絵画を持って、帰国。何でもベラスケスはイタリアにもっと滞在したかったよ うですが、国王の命令で渋々と戻ったといわれています。このローマ教皇イノケンティウス10世の肖像画に関しては、ある逸話があります。教皇は描き上がっ た素晴らしい絵画のお礼にとその当時には莫大な価値の金の鎖をベラスケスに贈呈しようとしましたが、ベラスケスは断固として受け取らず、その理由として彼 はフェリーぺ4世の僕であり、スペイン国王に奉仕するゆえにその肖像画を描いたのであるから、何の報酬も受け取る理由はない、と言ったそうです。その理由を述べるにも礼儀正しく品位のある態度で教皇に意向を示しましたし、彼は教皇がどのような人物で、贈り物を拒否することが彼への不躾として、気分を害さないと解っていたことにおいても、彼の外交官としての能力を伺えるわけであります。帰国後、1651年から1654年の間には4つの肖像画と『ラス・メニーナス』と『糸を継ぐ人たち』だけを描きました。

    フランスからの外交職務の帰国後、病床に陥り1660年8月6日午後3時、61歳で歿。その8日後、愛妻のフアナも他界。


    

 プエンテフエンテ2004年12月   ©2004小田照美

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