mano alzada 1942 フリオ・ゴンサレス

2009年4月2日 Fragmentos puentefuente

 
レイナソフィア美術館で は初のフリオ・ゴンサレスの大回顧展に行ってきましたが、そこでもらったパンフレットを読んでなかなか興味深かったので内容を少し。展覧会パンフレットな ので三つ折の一枚の紙に収まる文章なのですが、内容が詰まっていると感じました。初期の頃に作ったルビーの指輪についてた手には、最後の手腕彫刻のゴンサ レスと合い通じるものも見えました。
 Mano izquierda alzada 1942
フリオ・ゴンサレス(バルセロナ1876年-パリ・アルクイユ1942年)
フリオ・ゴンサレスは、鉄の彫刻の創始者であり、また20世紀前衛芸術の展開においての重要な芸術家たちの一人と評されている。この大回顧展では、フリオ・ゴンサレスが生涯の芸術活動において探求した新彫刻統辞論を浮き彫りにしている。50歳を過ぎてから独自の芸術表現を確立させた数々の彫刻作品やゴンサレス以前のゴンサレス時代と呼ばれる無名時代の作品を展示し、ネックレスや指輪などの装身具や、彫刻の世界で革新を成し得る前に制作した絵画や素描など、さまざまな分野の作品を見ることが出来る。
ゴンサレスは、モデルニスム隆盛時のバルセロナに生まれた。父親が営んでいた金属工芸細工工房にて職人として技術を得て、兄と共に鉄の鍛造や鋳造に従事していた。鉄作品をはじめて展示したのは、1892年のバルセロナの芸術工業国内展覧会であった。その翌年にはシカゴの国際展覧会に出展したが、その当時は絵画制作に惹かれていた。
バルセロナでは、兄と共にウルグアイの前衛芸術家トーレス・ガルシアと頻繁に会い、その頃の多くの芸術家たちが胸に抱いていたように、兄弟はパリへの移住を決意していた。父親の死後、金属工芸細工工房を売却し、1899年、ゴンサレス兄弟はパリへと移った。そののち1904年 までのあいだ、フリオ・ゴンサレスは、絵画のみに専念していたが、卓越するものを得ることが出来なかった。その当時の絵画にはピカソやプヴィス・ド・シャ ヴァンヌ、ドガといった画家たちの影響や、象徴主義の形跡が明白に表れている。多くの作品のテーマは女性であり、特に繰り返し表現していた題材は母性と髪 をとく女だった。1907年からゴンサレスは、アクセサリーをつくりパリ・アンデパンダン展に恒例展示し、同ドートンヌ展では絵画、仮面、金属打ち出しのレリーフを展示していた。
1913年 には、バルセロナに残っていたゴンサレス一家がパリへと定住し、翌年には貴金属とべル・エポック美学感覚の装飾品店を開いた。美術評論家であり詩人であっ たアレキサンドル・メルセルゥがゴンサレスの美術商人となったことは、芸術家としての将来への道が開かれたことであり、交友関係の広がりをもたらすという 決定的な出来事となった。モディリアーニ、マックス・ジャコブ、評論家たちのアンドレ・サルモンやモーリス・レイナル、また長い親友となる彫刻家ブラン クーシと知り合った。自生溶接技術をフランス自生溶接所にて学び、この工業技術を学んだことが、後に鉄彫刻改革のための要になった。その後の10年間は、ゴンサレスの芸術家としての転換期になり、絵画を描くことをやめ始め、打ち出しレリーフの平面に質量感を探求し始める。
1928年は制作活動に変化が起こった。金属の扱い手を焼いていたピカソが、熟知していたゴンサレスに自生溶接技術の協力を求めた。その当時、ピカソは友人-アポリネールへの追悼記念碑を制作しようとしていた。その碑の案は、1914年にアポリネールが書いた『虐殺された詩人のくだりの「詩のように栄光のように、 ひとつの揺るぎなき無の彫像を彼のために建てなければならない」から着想を得たもので、「無の彫像」と呼んだ見え透きまた空洞である彫刻を作り上げたかっ た。ピカソとゴンサレスは、何回も下絵と模型をつくり上げ委託人に提出してみるものの、あまりにもモダンすぎるためにスキャンダルを起すという理由から何 度も却下されるのであった。二人の制作協力は1932年 まで続き、ピカソは考案したクロッキーの作品の実現の可能性をゴンサレスの助言によって確認できることが出来た。またゴンサレスにとっては、ピカソとの関 係によって即興性を重んじた総括的な素描を基にした作品を展開するための刺激を受けることになった。それまでのゴンザレスの作品は、小規模であり繊細な鉄 作品であったが、それ以来力強いものとなり、壮大で複合的なかたちへと変化した。これらの作品が国際的に名を知らせるものとなった。
1930年代は、フリオ・ゴンサレスの生涯で制作活動の最も盛んな時期となった。ゴンサレスは50歳 を過ぎてから、ようやくのこと芸術家としての独自の表現方法を得た。糸状あるいは線的な彫刻を造り、これらの彫刻は「空間に線を描く」彫刻であるとフリオ は定義した。殆どの作品は鉄の細棒で直接即興的に制作されたものだった。見た目には抽象的なる表現を前面に出すものとなったが、ゴンサレスはかつて一度も 具象主義の全てを断つことはしなかった。これらの糸状作品は素材と空間との和合を優先するものであり、西洋の伝統的なる左右均斉の観念をなくしたものだっ た。大いなる概要主義と形式における複合性の作品が完成したのだった。それはフリオの最初の人間大の作品であり代表作となった『髪をとく女I』だった。
1937年 ゴンサレスは二つの卓越作品をつくり上げた。一点はパリで開催された万博のスペイン館展示の『モンセラッ』であり、もう一点は、キュビズム、シュールレア リズム、表現主義の様式との間で大胆なる統括論を成し遂げ、彼の全ての彫刻作品の中で最良なる芸術表現となった『鏡の前の女』であった。このパリ万博スペ イン館は、スペイン前衛美術が長い亡命生活を強いられることとなる直前の絶大展となった。スペイン館の企画展示委員長であったホセ・ガオスはカルダーの 『水銀の泉』の他、三点の巨匠作品ピカソの『ゲルニカ』、ミロの『カタルーニャの刈り入れ人夫』、ゴンサレスの『モンセラッ』を集めることを成し遂げた。 その当時のゴンサレスの最新作品であり、ピカソが最も気に入っていた『鏡の前の女』を展示せずに、『モンセラッ』が展示されたのは、作品そのものよりも、 むしろこの作品の持つ象徴的な側面によるもので、スペイン館の攪拌と政治的な流布の意味を大いに含むものであった。『鏡の前の女』は、同年にパリの現ジュ・ド・ポーム国立美術館開催された「国際独立美術の起源と展開展」において、ガボ、ぺヴスナーといった構成主義の作家たち、カンディンスキー、ミロ、ドローネー、ピカソの絵画のそばに展示された。
1942年に65歳で亡くなる前の何年間は第二次世界大戦となり、戦争のために使われていた自生溶接技術を、ゴンサレスには使えなくなってしまった。ゴンサレスの埋葬式に参列したピカソは、その数日後『ゴンサレスの死』を表現した三枚の静物画を描いた。
この展覧会への入場は,新館入り口のみ。  翻訳 小田照美

No hay comentarios:

Publicar un comentario