lágrimas

2008年5月2日 Fragmentos puentefuente


ス ペインに着いた頃には、ほぼ毎日というくらいにプラド美術館に通っては、あのような宝の詰まった美術館の存在にため息をつくというか、感動するというか、 いつでも見れる安心感というか、なんともことばに表現できない感慨にふけるような、ともかくありがたいと、誰にありがたるのかも分からないままありがた い、そんな気持ちだった。美術館には、外国人は学生証を提示すれば無料で入れたし、スペイン人も身分証明書を見せるとタダだった。1819年の美術館開館(1912年 からプラド美術館と称された)までは一般公開はされてなかったのだから、宮廷に出入りしていたゴヤのような画家はベラスケスの絵を見ることは出来ても、他 の画家たちや一般市民は見れなかったのだ。公開されているということそのものがもう招待なのだけれど、この美術館無料入場は、スペイン国民よ、いつでもご 覧ください、という大らかな招待だと思った。
あ のベラスケスだとか、ルーベンスだとか、グレコ、レンブラント、ティツィアーノ、ボッシュ、ティントレット、フラ・アンジェリコ、ボッティッチェリ、ゴヤ などの作品をスペイン市民戦争の時には、どのように保護していたのだろうかと、脳裏を駆け巡っていたことが時々あったけれど、そのいきさつについて書かれ た歴史書がスペインで刊行された。現在プラド美術館が所蔵・展示している作品を始めとして、聖フェルナンド美術アカデミー、エル・エスコリアル、王宮、教 会・修道院、公爵宮殿、美術館などの所蔵作品を、スペイン市民戦争の最中、略奪や爆撃の被害からどのように守られたのかを記述したもの。
  • Arturo Colorado Castellary. Éxodo y exilio del arte. La odisea del Museo del Prado durante la Guerra Civil. Cátedra. Madrid, 2008. ISBN: 843762441

以下は、新聞に載ってたコロラド著作についての記事と、プラド美術館の歴史を読んで書いたもの。ほんの少しのスペインの歴史の断片を垣間見る気分になった。
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 1936718日 フランコ将軍隊の軍事蜂起でスペイン市民戦争勃発。反ファシズム知識人同盟は芸術作品保護運動を発起し、【芸術国宝保護・押収評議会】が政令として下され る。スペイン各地の重要文化芸術作品はマドリードへと集められ評議会の管理の下に保護された。プラド美術館は閉鎖され、絵画といった移動可能な作品は毛布 とプラスティックシートに包まれ、美術館の地下の一番奥に、国内から集められた作品と共に保管された。
 19369月第二共和国政府は、バレンシアの画家・ジュセップ・レナウを芸術局総長に、パリにいたピカソをプラド美術館館長に任命。11月 の空襲激化により、プラド美術館は九発の焼夷弾爆撃を受けた。芸術作品が出るときは、戦争に必要な武器との交換である、というファシズムの政治的宣伝普及 も広まり、共和国政府は作品をバレンシアに運び出す決断をし、襲撃の危険を避けるため夜間に作品を積んだトラックは時速15キロの速度で走り続けた。以後も徐々にバレンシアへと作品は運ばれ続けた。19374月【芸術国宝中央評議会】が設立され、評議会長は、画家のティモテオ・ペレス・ルビオだった。プラド美術館館長として就任にはいたらなかったピカソは、作品を守るために国際協力が必要な際には、保証人としてピカソの名前をあげるようにとパリからペレス・ルビオを励ました。
    ヨーロッパ諸国の美術館・文化協会関係者の戦争時の文化財保護への関心は強まり、元大英博物館館長は、スペイン芸術作品の避難移動についてのより詳しい情報をロンドン・タイムズ紙を通して求め、9月 には共和国政府の招待で、作品の保管されていたマドリード、バレンシア、カタルーニャを訪れ、帰国後タイムズ紙に視察報告書を掲載。またパリで開催された 国際美術館事務機関の委員集会では、戦時における芸術文化財保護について論じられ、スペイン芸術局総長が市民戦争中のスペイン伝承・芸術文化財保護のため の計画書を発表し、プラド美術館副館長が書いた市民戦争における芸術作品保護緊急対処報告書が提出された。
 ドイツ・イタリア軍が支援していたフランコ軍勢力の圧力で、共和国政府はマドリードからバレンシアへ移動。さらに1937年半ばにはバレンシアからバルセローナへと流転。プラド美術館作品の中でも重要な絵画は、政府と共に移動され、要塞塔、修道院、鉱山などに保管されていた。また1938年末には、ムルシアのカルタヘナへもプラド美術館の作品は運ばれた。
 1938年、画家のホセ・マリア・セルトが、ジュネーブの国際連盟事務総長にスペイン文化財保護の援助を求めたことからはじまり、フランス、イギリス、スイス、オランダ、ベルギー、米国の文化協会や美術館館長たちにより、政治無介入の【スペイン芸術国宝保護国際委員会】が設立。19392月の敗北寸前に共和国政府は、市民戦争終結時には無条件返還される「フィゲラス協定」を国際委員会と結んだ。この国際委員会の協力を得てフランスのペルピニョンから、スイスのジュネーブまで全22貨物車両列車にて約二万点の作品は運ばれ、国際連盟本部に保管された。
 193941日、フランコ総統の勝利宣言とともに公に市民戦争終結。徐々に作品の返還が始まった。フランコ政府の承諾で6月から8月まで『プラド美術館の巨匠たち』展がジュネーブで開催され、約40万人の入場者を数え、入場券とカタログの収益金200万ペセタはスペインへの作品返還費用に当てられた。91日、ナチス・ドイツ軍のポーランドへの侵入から、3日にはイギリス・フランスがドイツへ宣戦布告し第二次世界大戦勃発。プラド美術館は全ての作品の返還に緊急を要し、ホセ・マリア・セルトとフランスの公共土木建築大臣のはからいで96日には、ジュネーブに残っていた展覧会の作品を乗せた列車は出発。ドイツ空軍隊を避けるため夜間に無灯の列車は南西に走り続けた。193999日にプラド美術館に到着。一方【芸術文化財回収機関】は、カルタヘナ、アルコイ、バレンシアなどにあった多数のプラド美術館の作品を回収し美術館に収めた。
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  • Salvemos el Prado.ドキュメンタリー映画。アルフォンソ・アルテセロス(Alfonso Arteseros)監督。2004年、スペイン。
  • Rafael Alberti: Noche de Guerra en el Museo del Prado Ediciones Losange. Buenos Aires, 1956 アルベルティが亡命地にて書いた戯曲
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