サパテロを発見する     フアン・ホセ・ミジャス

作家フアン・ホセ・ミジャスが、ホセ・ルイス・ロドリーゲス・サパテロ首相に2日間密着取材した記事の翻訳です。2004年9月5日日曜日 週刊誌エル・パイス1458号より

  

   午後3時をちょっと回った昼下がり、灼熱の太陽の下、空腹でちぢまった胃をかかえていた僕は、マドリードを出発する前に外交業務に仕える人が僕にくれた助言を、苦々しく思いだしていた。「食べ物を見たら、食べるんだよ。 トイレを見たら、用をたすんだよ。ベンチを見たら、座るんだぞ。なぜなら、その先いつ出来るかわからないからさ。」その忠告に耳を貸さなかった僕は【次の食べれる機会、トイレに行く機会、座る機会】のほうがはそのときより も好かろうと思っていた。 ところがその時が唯一のチャンスだった。 そんなわけで、3回ヘロヘロとしてしまった。それはアルジェの官邸の中庭にいた時で、アルジェリアのブーテフリカ大統領とホセ・ルイス・ロドリーゲス・サパテロ首相との官邸内での会見は、皆が予想していたよりもかなり長引いていたからだ。

    数日後ホセ・ルイス・サパテロ政権100日目となる、とある7月の水曜日の午前8時45分にこの取材は始まった。(僕の周りにいた人々にとっては、日常の事であったけれど、)僕にとっては冒険ともいえた。その時間に、モンクロア首相官邸からアルジェ行きの空軍機に乗るためにトレホン・ デ・アルドス空軍基地まで、ヘリコプターで僕たちは運ばれた。ヘリコプターと飛行機では、別々の感動を起こさせるものだ。飛行機の場合は、大地から引き 抜かれるように感じるけれども、ヘリコプターの場合は、大地そのものが僕から離れていき、空中に置き去りにされてしまった様な気になる。それはどう してかといえば、これっぽっちも確信が無い幾つかのプロペラがクルクルと途方に暮れたように回っているからかもしれない。そんなこんなで、大地は僕たちから離れ始め、僕たちに危険の暗示をしているかのように枝枝が激しく揺れ動いていた木々のこずえの上に僕たちは呆けたように浮かんでいた。そうして内部で僕の日常生活が育まれている都市の外観を、まるで惑星旅行でみる様に、上空から見つめていたのだった。コルーニャ自動車道のその時間帯に起こるいつもの渋滞を見た。カサ・デ・カンポ自然公園の森林地帯、高級邸宅街のテニス・コートを見た。それから庶民的建物の屋根や共同中庭、櫛の形をしたテレビのアンテナが建物の先を飾っているのを見た。僕たちの路線から外れたヘリコプターの右側の方向には、周りの小さい集合のビルディングを統括しているピカソ・タワー が現れた。ニューヨークの天命ともいえるビルディングであったけれど、 マドリードは何世紀前から伝わるラ・マンチャ地方の一集落であることを見捨てるということには至らなかった。(*訳者注 マドリードのピカソ・タワーの設計者はニューヨークの世界貿易センターツインタワーと同じ日本人建築家です。) 

    ラ・コルーニャ自動車道の渋滞の中に僕たちが置き去りにした運転手の誰か一人でも100mも進んだかな、という前に、僕たちはフアン・カルロスI 世 の公園と国際催事展会場の上を飛んでいた。それは上空から見ると大変よく出来上った模型のようで、実に巧妙に出来上がった彫刻、オリーブの木々、池といったものが、きちんとそれぞれの位置に置かれた模型と思えた。僕の部屋の天井から僕自身を観察して当惑している感覚で自分の家を見た。もしも時にモンスズメ蜂がするようにヘリコプターが空中で一瞬止まったとしたら、その瞬間いつもこの時間帯に犬と公園を散歩している僕自身を見たかもしれない。



ヘリコプターの中では視覚以外に感覚機能が働いていたのは臭覚で、とてもガソリン臭かったからだ。それから聴覚もで、プロペラの耐え難い騒音が まるで茶漉しを抜ける水のように隔壁を伝わって洩れてきたからである。ロドリゲス・サパテロの真向かい座席に僕を座らせてくれる気遣いをしてくれたにもかか わらず、彼に話しかけないのは失礼と思っていたけれど、それでも僕の人生の中でおそらく最後だろうという、滅多に無いチャンスの有体離別体験を台無しにす るつもりも無かった。僕が思うに、彼はこんな僕のジレンマを察したようで、彼にとっては慣れてしまったこの異様なパノラマ感覚を僕に楽しんでもらおうと、 新聞を読むことに集中し始めたのだ。

  僕に聞こえるように彼は大きな声で叫んだ。「外国訪問をするときにはいつもこの経路なんですよ。」



飛行は、村祭りのメリーゴーランドといった乗り物に乗る時間よりも短かった。というのは僕たちが気がつかないうちにヘリコプターはアブが飛んでる最中に方向を変えるように、二回鈍い動きをしたかと思いきや、大地はまるで羽を手のひらでそっと受け止めるかのように僕たちに近づき始めたのであった。運が好ければ、又さらに100mも進んだかもしれないラ・コルーニャ自動車道の渋滞に巻き込まれた人々のことを思い出しながら、搭乗していた8人か9人の人々と 共にヘリコプターから降りた。大地には彼らの交通手段でトレフォン基地に到着しいていた9人か10人の残りの訪問同行メンバーが僕たちを出迎えていた。僕たちは全員で18人で、アスナール前首相の第一次任期から公式訪問の際に待遇されるようになった空軍機エアーバス310に直ちに乗り込んだ。

  僕の今回の取材は、ロドリーゲス・サパテロの影になっていることだったけれど、搭乗してからの数分間は飛行機の内部設備を覗く事にしてみた。機内前方には、 ベッド、シャワー、ソファー、オフィス・テーブルが備え付けの、ある種船上キャビンといえそうな個人客室があり、それは質素であるけれど、同時に居心地のよいところで、そこで生活したくなるような気分にさせるものであった。大洋を超える長距離飛行以外には、サパテロは使用しないと周りの人が言った。そこよりももう少し後方に八人用の共同客室があり、そちらのほうを彼は好むそうで、そこでもっとも身近な側近と共に今回もいた。そのコンパートメントに続いて、 通路を隔てて両側に、二人ずつ組になって正面に座れる四人がけテーブルが置かれていた。機内設備は、一般飛行機会社の旅客機と何の変わりも無かった。<お好み部屋>と名づけることが出来るコンパートメントには、モンティージャ観光・商業大臣とモラティーノス外務大臣のほかに、サパテロの側近役人である、ニコラス・マルティネス・フレスノ政府首相府書記長官とミゲル・セバスティアン首相府経済事務長官も居た。

   飛行機が飛行高度の安定位置に到達するやいなや、外交業務員によって指定された座席から皆が立ち上がり、あちらこちらと動き回るか、あるいは集まり始め た。<お好み部屋>ではロドリーゲス・サパテロはモンティージャとモラティーノスと共に、僕が思うにはアルジェでの打ち合わせをしていた。その間残りの同行人たちは一時間に100紙は見るかもしれないという速さでその日の発行誌をめくっていた。彼らについて、あるいは彼らの政治方針について書いてあるペー ジを見つけるために、とても信じられないような指の感覚を発展させていたのであった。20分の間に7・8紙の新聞を読み終えていたが、でもシロアリが行き止まりになる節目を避けながら、木に穴をあけていくような粘り強さであったのだ。 正当性差別待遇の関連について疑いを持つ人のために書くけれども、飛行機に搭乗してる男女対比は同じ比ではなかったことを観た、たった3人の女性に対して15人の男性陣であったのだ。この比率には全て男性であった客室乗務員は含まれていない。

  平均年齢は若かった、もしも年配組みのモンティージャとモラティーノスと僕自身を除いた場合は尚更であった。 そのほかでは、雰囲気はなごやかで、第1列目 の僕の席からすぐに立ち上がり、首相の後ろの席に座り、彼は僕に接待するために、後ろを振りかえるという、居心地が悪かろうという姿勢であっても余り気にならないほどであった。彼に幸せそうに見えると語ったら、彼はその通りですと言った。ちょうど、モンクロア官邸の医師たちが定期健診を行ったばかりで、彼の健康状態は良好ということだった。

「なぜなら、僕は幸せだからです。」と結果を報告する担当医師に語ったそうだ。



続いてありふれたテーマであるけれど首相たる責任の重さについて語ってもらおうという意図で聞いてみたが、それは無駄な行為であった。彼は統治する事が楽しくてしょうがないという状態で、どうしてかといえば、-統治とは、物事を変える力である-という論理を充分に理解したうえで、ずっと昔から彼は政治家になりたかったからである。前日のモンクロア官邸の庭での彼との短い会話の中で、僕は選挙に勝った日から住み心地の悪い官邸に住んでいる、 と皮肉って聞いてみたら、彼はヨーロッパ各国の首相官邸の中でも、スペインの官邸ほど住み心地のよいところは無いはずだと言った。

 「ダウニング・ストリート(英国首相官邸)はどうでしょう。」 

 「ダウニング・ストリートは大きいし好い官邸だけれど、でもこれほどじゃないよ」と一望できる庭を、ジェスチャーで示した。

  又別な観点から言えば、彼がモンクロア官邸に住むことに不平を漏らす事は、官邸経費を払うスペインの納税者たちに対して感謝していない態度を示すものであると考慮していたのである。結局は誰もが望む、よい家に住み、よい仕事に就いて、愛する家族を持つというただひとりの男の前に僕はいたのであった。世の中には望んでいたものを、掴んだ途端に意気消沈する輩が沢山いるといえども、不幸者と感じるのは筋が通らないことだ。

   とにかく僕は彼が首相になる前と後では、権力と現実ということに関しての考えには大きな差異があったかと聞いてみた。彼は違いはないと答えた。それは、思っていた以上に指令出来るということだけに関することであるけれど、つまり想像してた以上に物事を変えることが出来るということである。実際に、大方の予想をくつがえして政府首相の就任の翌日にイラクからスペイン軍を呼び寄せる命令を下したのだ。そこには又スペインの歴史の中で最初の男女双方同数政府*があったのだ。(*サパテロ政権は16人の大臣のうち8人が女性) 性別暴力に対する完全法案、 ヨーロッパ憲法制定交渉問題の防御解除、最低給与額の上昇、教育システム向上法のもっとも難題部分の停止、エブロ川灌漑計画停止、国営テレビ局に5人の知 識人たちを任命、各地方自治州との関係緩和など、これら全てを100日足らずのうちに成し遂げたのである。権力を駆使しているうちに彼も変わってしまうのじゃないかなあ、と大きな声でいった。

「首相就任時に、権力によって僕自身が変わるかもしれないということが唯一怖かった。でも、もう今はそうはならないとわかっているんです。」と言った。

「でも、過去を振り返ってみると正反対のことを物語っている。誰もその人が変わってしまったとは知ることが出来ないでしょう。」

「僕にとってはわかっているんです。」

「どうしてそれほど確信できるんだい。」

「どうしてかって言えば、権力神話のベールを剥がしてしまったからなんだ。僕は権力のもっとも外側にある幾つかの点について、ちっとも惹かれているということが無い分、優勢なんです。」

「でも実際の話、権力は孤立させるでしょう。」

「いつでも現実との繋がりを保ち続ける方法だって沢山あるんです。結局、大切なことは、権力神話のベールを剥がせるかどうかという事です。 僕は毎晩僕の奥さんにこう言います。「ソンソーレス、国を統治できるであろうというスペイン人が何百万といるということは、驚くべきことだよ。」



ということで、僕は幸せな男の前にいたのだ。でも又別の観点から言えば、権力はたくさんの人を変えてしまったけれど、権力を得ることによって彼自身は変化しないと骨の髄まで確信しているひとりの男の前に僕は居たのだ。選挙投票日の夜の「君たちを幻滅させないぞ」といった彼の台詞 を、実践した時には確認できるように、又その反対の場合には彼の顔に突きつけるために、紙に書いておいても価値があるかもしれない。サパテロがその時満喫していた現実の幸せは、実に感染しやすいものであった。彼に同行していたグループは国家公務員の団体のイメージと想像するにはかなりかけ離れていたのだ。 スーツの型と、濃紺の色が他の色よりもずっと多いことだけが、外交訪問する政府の団体であるということを判らせるものだった。

  アルジェに着陸したときには、飛行機のタラップの下でブーテフリカ大統領がサパテロを出迎えた。軍隊式典は観閲式、国旗高揚、国歌も含まれていた。時間の刻 みは、あるときは幻滅するほど遅く流れたり、又別の時間の小刻みは耐えがたく早かったりと時間の観念が大きく分かれた。と突然、僕たちは政府の数台の公用車の列の外側に立って居た。アルジェリア政府の補佐が後方車の搭乗者と無表情で話している間、僕たちは手元にあったもので、風をあおっていた。それから突 然僕たちは急いで車に乗り込まなければなくなり、車の行列から外れないために、ものすごい速度でアルジェの街中を通り抜けているのを見た。僕は5番目の車に乗っていた。その運転手は、5番と言う数字に忠実に、4番の車の後ろについていたが、その4番の車は僕たちが追い越すことなど許しはしなかったし、その前の車もハエさえも入り込ませないほどであった。アルジェの風景は、映画と言うよりも、版画の集合と言う感じだった、というのも僕たちは常に上下に動い ていたからである。その版画の中でも、特別一番感動的で非現実的な港のパノラマ風景が思い起こされる。それはカーブを曲がって現れ、その次のカーブで消えてしまったのだ。それは僕を泣かせるほどだったが、そこで立ち止るような時間は無かったのだ。例えると、その2分後には車から急いで降りて、独立戦争時の 殉教者碑にサパテロが花を捧げるのを見るために補佐の後について走らなければならなかった。僕の車の5台先のリムジン車の補佐がドアを開けようとしていた その時に思ったことは、サパテロは僕と同じ現実視野の断片を見ていたわけだけれども、もし一人の人間が、ヘリコプターから、現実に存在するものを、まるで 模型のように見たり、リムジン車の中から、バラバラのかけらのように見ることに慣れてしまったら、その人が変わらないなんて事はあるだろうかと自問自答し た。でも又さらに同じことを強調するのは、下劣ないと思い聞くのをやめた。しかしながら、彼が第35回スペイン労働社会党総会にて書記長の座を勝ち取った少し後に、別の影の取材の機会で公式車に彼と一緒に乗っていたときには僕が思うにだけれど、もうひとりの名もない市民 として散歩できないであろうという永遠なる懐古心を伴いながらもマドリードの街並みを観察しているように思えた。

   それ以外にはヘリコプターに乗り込んだり、降りたりするのを見たり、人に挨拶するのを見たり、歩くのを見たりしたときには初対面のときに見せた青年のよ うな手際の悪そうな部分を失っていないことに気がついた。それらの不器用そうな仕草というものは、自分の脚とか腕の長さをまだ把握してない人の特徴で、またそれが立ち向かうべき世界に対する策略であるかもしれないと思った。結局のところ、ビリヤードのプロが、初心者の相手をびびらせないためにする見せ掛け の戸惑いなのかもしれない。確かにいえることは、相手の目を見つめて、その体の疑いのある動作の催眠術の罠に落ちないようにすることだ。そして彼の視線が 計算された物かどうかを確かめることが必要だ。続いて相手の精神力を測ることだ、その相手 に協力する者や、影までもはからなければならない。一度これらの予測を終えた後、ビリヤードのキューを持ち、見事な巨匠のうちを見せるのだ。この部分がイ ラクからスペイン軍を引き戻したことであり、男女双方同数政府を作り上げることであり、一瞬一瞬ごとにそのときに適したフレーズを発声する事である。その点については4年前の第35回スペイン労働社会党総会で勝ったときに、ライバルが破滅的演説後、彼は演説舞台に上がってこう言ったのである。「それほど、 僕たちは悪い状態じゃないよ」  

   官邸からサパテロが現れて、リムジンに乗り込み補佐は別の官邸に向かってエンジンをかけた。その官邸にてやっとこトイレで用をたし、座り、食べるという 順番で僕の欲求を満たした。その前に、洋服についての些細な問題を解決しなければならなかった。というのも僕はまさかサパテロとブーテフリカの会食の席に 招待されるなどと思いもしていなかったので、ジャケットの下にネクタイ無しのうえ、ポロシャツという姿だったのだ。スペイン社会労働党書記長時代には、サパテロの個人アシスタントであり、現在は国立情報局幹部の一人である、アンへリカ・ルビオ女史は、サパテロはいつも予備の白いシャツを持ち運ぶのが常であるから、きっと僕に貸してくれるだろうから、心配しないようにと言ってくれた。この件については僕を非常にワクワクとさせた。第一に、かつての歴代の首相 も、書記長さえも僕に自分のシャツを貸してくれるなどと言ったことはないからだ。第二点は、ある一つの逸話が、別の逸話をひっくり返すということはありえないからである。このシャツの件で、悲しみのどん底で死にそうだった王様に、医者たちはある幸せな男のシャツを着れば治ると診断書を書いたという民話を思 い出した。大臣たちは世界中を幸福の男を探しては駆け巡り、ついに見つけたところが幸せな男はシャツを持っていなかったのである。

   以前にも書いたけれど、幸福な男・サパテロのシャツを王子様でもない僕に貸してくれるというのである。それは疑う余地もなく、僕が青年時代から死ぬほど 苦しまされている悲しみを拭い取ってくれるに違いない。(この死ぬほどの苦しみが長引いてるのは、僕が抵抗しているからです。)最終的には、御伽噺と同じにサパテロは予備のシャツを持っていなかった。もしかして飛行機の中に忘れてきてしまったのかよくわからないけれど、とにかく民話と同じで幸せな男は シャツを持っていなかったのである。そんなこんなで僕は完全に不幸な男とも見えないアルジェ在住のスペイン大使館参事官が貸してくれたシャツを着ることとなった。(きっと、母が忠告したに違いないという、洗って、アイロンをかけたシャツにほんの些細な贈り物を添えて返したけれど、もう着いているといいけれ ど。)



 完璧なる身なりに整えてそれから最も居心地の悪い肉体の切迫感から開放された僕は会食会場に入り、大統領席から数メートルしか離れていないところにあった僕の席を探した。姿勢をか える毎に英語からフランス語に滑ってしまう国際テロリズム専門家と、誰も彼をとがめることも無く最初の数分から沈黙し続けることに固執したカナダ人らしき 外交官との間に席を指定されていた。会食テーブルは6人掛けであったが、もしカナダ人を抜くと5人であったけれど、すぐに4人になってしまったのは、他の同席者の尊重を受けて僕も孤立態勢をとったからである。そうして僕は15から20人用の大きな楕円形テーブルでブーテフリカ大統領の右側に座っていたサパテロを観察することに集中した。僕の視覚点から見ると何か面白いことが起こってい た。ブーテフリカとサパテロのそれぞれの後部から、通訳の胴体はすっぽりと隠れたままで、まるで彼らの頭が大統領と首相の肩から出てくるかのように見えた ので、ブーテフリカとサパテロは一組の二頭獣のように見えたのだ。それはとても引き込まれるものであった。僕が見ていたものは、二つの胴体の上で支えられていた四つの頭による活気のある会話だったのである。もしかして幻覚だったのかもしれない、でもブーテフリカは何回かは彼自身の口に、別の何回かは予備の 頭の方の口にスプーンを運んでいたのである。この光景に見とれていた僕にとって会食はあっという間に過ぎてしまった。

   その後、まるで夢のように覚えている何かとても奇妙なことが起こったのだ。テーブルから立ち上がった僕たちはアルジェリア政権と交渉したテーマについて、サパテロが記者会見報告するために、記者たちで一杯の会場に入ったのだ。問題は主役のサパテロ以外には全員揃っていたのだ。誰もサパテロがどこにいるのか知らなかったので、側近たちは狼狽しているようだった。ついにアンへリカ・ルビオともう一人の国立情報局書記のハビエル・バレンスエラが急に出て行く のを見た僕は抜け目なく彼らの後をつけた。迷宮のような庭を抜けた後、宮殿の別館に入り、アンへリカがドアを開けるとその奥には沢山のナツメヤシの置かれ た火鉢コタツテーブルのある居間のような空間が現れた。それから点けられたテレビと肘掛け椅子があり、そこには幸運にも通訳の頭ではなく彼の頭が彼の両肩 の上についていた、煙草を吸っているロドリーゲス・サパテロがゆったりと座っていた。(もしかして狼狽してたのかもしれないけれど、あまり経験のない青年のように吸うのだ。煙草の煙を肺まで吸い込んでないといった印象だった。)僕たちが入るのを見た彼は、僕にウィンクをした。

  「アルジェリアのテレビの植民地度をここで見ていたんだ。」 と言った。

二人の側近たちは数秒間のうちに、記者会見で聞かれるかもしれない、その午前中にスペインで起こったことを伝え、巨額の経費を払ってきていたテレビ局の中継が水の泡になる寸前だったので、すぐに会場に出向くようにと急がせた。サパテロは皮肉っぽい表情で立ち上がり、何かこんな風に「あちらに行きましょう。」 と言った。向かう途中ハビエル・バレンスエラはものすごい速さで情報を放ち続けていた。

  「この訪問は、政治的なものかそれとも商談のためかと聞くかもしれない。」

  「商談ではなくて、経済的なもの。」と言葉の誤りを直した。



携帯電話を通してネット上で伝わる最新ニュースを歩きながら見ていたアンへリカ・ルビオは、フェリーぺ・ゴンサレス元首相がスペインで発言したばかりの内容を加えた。

  「サパテロの外交政治は従順でない政策のコストがある。」

   記者で群がっていた会見場に到着し、透明な書見台の前に書類無に立った。厄介な質問に対して答ようとするたびに、パンタロンのポケットに手を入れるかな という仕草をしたけれど、一度も手を突っ込むまでには至らなかった。それらの手の最終的な行き場を心配していた傍観者は、口頭弁論のふらつきに注意を払う ことをやめてしまうのだった。結局、口頭弁論不足をどのように隠さなければいけないのかという、無料のクラスを行い立ち去ったのだ。午後五時くらいだっ た、そして遠くから見た感じ彼が特別に痛みつかれているようには見えなかった。猛暑にもかかわらず栄誉歓迎軍事式典の餌食となり、三、四回に及ぶとても長いブーテフリカとの会見、スペイン企業の取締役たちとの集会、献花儀式、二、三回の首尾一貫した国旗最敬礼つきの兵隊観閲式、本式なる会見(きっと貴方は それがどんなものか知らないと思うけれども、それでも最悪なものと想像してください。)、通訳つき公式昼食会、もしもサハラ問題が中心となるものと気がつ けば非常にデリケートな記者会見、そして再度の栄誉礼を持っての送迎式などであった。

   この記者会見の二時間後に帰国の途につくために又飛行機に乗り込んだときに、僕を安堵させたのは全ての人たちが、このヘトヘトになる一日を終えて、しわ くちゃで汗のにおいのするスーツを着ていたことだった。つまり彼らは大臣、準書記官、局長の役から降りなくとも、人間であったのだ。その汗としわは、アル ジェの街ではなくて現実のものであったのだ。

   帰りの飛行の旅は、行きよりももっとほぐれていた、なぜなら疲れていたとはいえ、みな義務を果たし終えたと言う感覚で動いていたからだ。もしもその日の 業務に点数をつけなければならないとしたら、何点にするかとサパテロに聞いてみた。彼は万事うまく行き、打ち合わせしていた目的を達成できたので、【良】 をつけるでしょうと答えた。モラティーノスは彼の上役の分析に同意していたけれど、僕が思うに彼なら【優】をサパテロに与えたところだろう。しつこいけれ ど、いったいどの位、あの飛行機の中に漂っていた議会的環境と若々しい雰囲気を保ち続けることが出来ると思うかと聞いた。僕のしつこさの前に彼は微笑ん だ。それは僕自身でも偏見の表明と思い始めたのだけれど、再び政治とは物事を変えれる可能性であり、早熟の頃から抱いていた現実を変貌させると言う願いだ けが唯一彼を興奮させることであると言った。「このことは解りにくいことです。」と付け加えた。「幼い頃から僕の家庭で見ていた情動的緊張の高まりは、そう理解できないだろう。僕の祖父が市民戦争で射殺された時に、それは単に僕の父は父なし子となり、僕の祖母は未亡人になっただけでなく、彼らは祖国を失く してしまったんです。」



会話する相手に近づいてまばたきもせずに言った。ここでは、よく知られているロサーノ大尉のことや彼が射殺される前の晩に書いた政治的・実存 的遺言を再度繰り返すことはしないけれど、それでもそれらの祖父の言葉はその孫に、反・高慢、反・過剰権力、反・無礼、反・虚栄として、それらの根拠のな いものの解毒剤として活かされているような印象を与えた。

   一般的に自分自身の先入観を再確認するために、目の前にあるものをみて、自分が望むことを見て、そして必要なことを見るものである。思うに僕は最初から 政治家の典型的イメージの色眼鏡でサパテロを見ていたと思う。この賭けには僕の方に付きがあった、と言うのは彼の自伝には唯一つの汚点も見つけられなかっ たし、マドリードに上京して、二回ほどの思いがけない幸運に恵まれた一人の地方出身の典型的タイプから抜け出すのを助けるのに充分な戦闘的な政治演説が彼 には欠けていたからだ。この僕の視点は、世代の違いによる偏見の結果ではないかと言う可能性を僕は考え始めた。そうだとしたら、僕が語ってきた影なしの自伝(悪い意味での)は、実際に私的な豊かさに満ち溢れた瞬間瞬間で一杯の人生であったのだ。それは、たとえば、ロサーノ大尉の残された息子が、彼自身の息 子たちを前にして行った遺言状の朗読会であった。僕が尊敬する沢山の作家たちの自伝の外側は平面的なものであった。つまり、火鉢コタツテーブルの周りで時 間が過ぎていたのである。ところがその自伝の内部では沢山の大変動で満ち溢れていたとその作品の複雑さを説明している。それはきっと別の順番であっても、 この政治家の場合に当てはまるだろう。(そういえば、火鉢コタツテーブルについて語っていたけれど、サパテロの自伝著者であるオスカル・カンピージョが、 とあるレオン出身のエディターのフレーズを引用していた。「サパテロは、ロサーノ家の火鉢コタツテーブルの産物である。」個人的なことだけれど、[火鉢コタツテーブル]と言う表現を聞くと、カバーの下に両脚を入れていつも座っていたバロッハ*を思い出さずにいられない。)*ピオ・バロッハ(1872-1956)小説家、[98年世代]スペイン文学ムーブメントの一人。



演説に関しては、前述したように出来ないのではなく、彼の前の世代のものと、彼の世代のものとが違うと言うことであった。サパテロ自身が多数 にわたって説明したように、彼の世代には決まりきったことについて闘う必要がなかったから、彼の表現法は民主主義のものであった。サパテロと同じ世代の僕 の友人に、この人物について当惑させられることがあると言った際に、彼が言ったのは、「僕たちにとっては、シートベルトは良いもので、煙草は悪いものと言 うことを説得する必要がなかったのは、僕たちの育った環境では明確なる事実は、もう定着していたからだよ。」そうして、僕は守りを緩めることにした。もしも僕がヘリコプターに乗ったときに引き起こした感動を、屈託なく語ることを恥ずかしくないなら、この人物が僕にもたらし始めた道徳的混乱を明確にするべきでもない、と彼は僕に言った。



僕は自宅にてその晩前出のオスカル・カンピージョ著・サパテロ伝のもっとも意味深長な章を読み直した。なぜか僕自身も属している[LA GENERACION TAPON=次の世代にふたをする世代]と評価されたには根拠が大いにある世代の派閥の策略前線に、若い世代は真っ向から攻撃して、現首相が書記長の座を獲得した、今から四年前の第35回社会労働党総会について考えることが出来た。特定の先入観を一度、確認できるまで保留しておいて、左翼派政党が常に愛着と厳しさで[LA PUTA BASE- 間抜けな基盤]と呼んでいた若い世代の派閥が、第35回 総会において、もう二度とありえないであろうと言う歴史的にも最大規模の大物たちのグループから権力をかっさらったことは、叙事詩的大事件であったことを 再確認せざるを得なかった。[間抜けな基盤]、または礼儀正しく呼べば、ヌエバ・ビアと言う派閥からの立候補者はホセ・ルイス・ロドリーゲス・サパテロ で、バスで二ヶ月間スペイン各地の連合という連合を一つづつ回りながら、党の二度にわたる総選挙の敗北と前代未聞の陥没状況の方向を変える必要があると社 会党員を説得していたのだった。でも、その前に衝突過剰の集会が続いた上、たびたびの警官介入を余儀なくされていたレオン連合を和睦させたのだった。そして国会下院議員に最年少記録で当選し、国会での二十年間にわたって、そういつも容易くはない任務を果たしながら、目には見えない筋肉隆々のたくましさをつ けた。それから党書記長の座を勝ち取り、四年後の総選挙に勝つまでの間、党内と同じでガソリンスタンドでは、とてもよく知られていたのだ。(いつも旅をし ては、ボカディージョ-(*フランスパンのサンドウィッチ]-)ばかり食べていた。)

   もしかしたら伝記がなかったからではなく、(履歴書は目をふさがない限りはその人を拒否できない)あるいは演説がなかったからでもなく、前に立ちはだか るまで、僕たちは彼を見ることが出来なかったのである。時間がもたらす将来への展望という点で、サパテロが何度も繰り返した[庶民の民主主義]という言葉 は以前は空疎な美辞麗句と思われたけど、それは意義のある言葉であったのだ。それは彼が最初に下した幾つかの決断の重要性を見るほかにありえない。(イラ クからの軍隊の撤退、性差別暴力に対する法案計画、同性愛カップルへの異性カップルと同等の権利を与える法案)、その目的とは投票が何かの役に立つという ことを示すものだった。

   又別の業務の一日に彼の影になることを申し込み、通常閣議のある次の金曜日に許可をくれた。サパテロはセルミ(身体障害者のスペイン協会代表)との協定 に調印するために午前中の閣議の半ばで抜け出た。[モンクロア計画]と呼ばれたその協定は、身体障害者を公務職に導入するための準備であった。サインをし た後、サパテロは市民間の不平等は多くの局面にあるが、その中でも、察するまでに最も時間がかかったのは身体障害者に対する不平等であると、十分以内で非 の打ち所のない演説をした。彼がモンクロア官邸に到着したその日に官邸内の設備を案内させられたとき、身体障害者を入館可能にする設備がどこにも唯ひとつ も無いということに、まずは気がついたと語った。現在までに唯一の建築工事を命令し、唯一工事を終了したのは、閣議場のある棟に設置された傾斜路である。 そしてONCE・スペイン盲人国立協会のビア・リブレ-自由の道-という名の会社を創立したことだ。



モンクロア官邸に着いて、彼が最初にそれらの設備不足に気がつくなんて当然のごとく僕には信じられなかった。そんなことはありっこないと思ったけれど、確認す るまでは僕の偏見を保留することに決めたので、この件については棚上げにした。それから別の観点では、サパテロの無邪気と抜け目の無さ、謙遜と高慢、口先 約束と実行という玉石混交の人格は、先入観無しに立ち向かう誰もが、彼の人格の前に混乱させられてしまうのだ、と僕はこの段階になってもう気がついてい た。その日、サパテロの昔からの秘書であるヘルツゥルディスと食事する予定で、彼女の上役の人格が引き起こす謎について僕が語るのを聞いていた彼女は、あ る瞬間にこういった。「サパテロは全て信じていることを口にするということを君が納得しない限り、サパテロを理解できないわ。」すると突然その言葉はこの男の全体像を完全に変えてしまった。想像してみてください。【嘘をつかなかった政治家だなんて!!】 そうだとしたら、彼がまさに権力に触れようとした瞬間、そしてその前に虚栄心がチラリと覗くという 前に、最初に彼が見たものは確かに彼の言った通りかもしれない、というのも、実際に身体障害者のための傾斜路はなかったのである。その午前中、閣議を終え た後、夏期大学講座で国家裁判所の判事であるガルソンが講義していたテロリズムについての講座の閉講式が行われるエル・エスコリアルへと行った。 僕たちが講義室に向かっていたとき、学生たちは廊下の両側に殺到して来た。突然サパテロは立ち止まり、半ば開けっ放しになっていた扉に近づいて、その鉄格子を通 して覗き込んでいた料理人に挨拶をし、講座室に向かう前にちょっとの間彼と話をしていた。こういった彼の心遣いを何千回と見たけれど、その態度は人気を得 ようとする試みで、彼自身の人格の一部とは思えなかったので、書き留めることはしなかった。たとえば、彼はヘリコプターを降りる前にコックピットに向か い、パイロットたちにお礼を述べない限りは絶対に降りなかった。何人かのモンクロア官邸に仕える者たちが僕に語ったところに寄れば、サパテロが住み始めてから、彼らは透明人間ではなくなったそうだ。というのは現首相は出入邸するときには必ず彼らに挨拶するし、彼らの気配りに対してお礼を述べるのだという。も しも回数が増えるたびに質的な跳躍に加算されるとすれば、このような心遣いの回数は、打算的な行動だとすれば、過剰という結果を認めざるをえなかった。結局、彼の個人的な振る舞いであったと受け止めなければならなかった。それは彼にとって世の中との関係を持つ方法の一部だったのだ。

   その午後には、党会議の開会をするためにトレドへと向かった。一枚も書類を持たずに、長く形式的に興味深い演説をした。その構成というものは建築と比較すれば、演説者が沢山の扉で一杯の廊下に立ち、その扉の向こう側にあるものを覗くために一つ一つ開けては、その内部に見えるものを聴講議員に語っていくも のと似ていた。こんな風に政権の100日間そして党の100年 についての有効な見直しを完了させたのである。現実の変貌のために役立つ道具でなければ党は意味がないと表明した。社会労働党の最良のぺージを書いた人々は、過疎地の家々で人々に読み書きを教えた党員たちで、それによって彼らは市民に変貌することが出来たのである。教育、文化、研究を信頼することが中道左 翼派であると繰り返した。最後の扉は、PP国民党に差し向けた。「君たちの内部問題を考えるのをやめて、スペインの問題を考えることを国民党に要求する。 国民党に言う、この国は複数地方性である、そしてそれは国を豊かにするものである。国民党に告げる、変化を恐れてはならない、なぜならそうすれば君たちは 尊敬される中道右翼となりうるからだ。」

   総会が開かれていた会場から大拍手の中去ったとき、アンチ討論集会を行ったと彼に言ったら、それに同意した。「討論会の本質とは相手にむちを当てること である。」と付け加え、「もしも党内部消耗の会でライバルを非難し始めれば、その後好き勝手に出来るけれど、それは情緒の吐き出しみたいなものにしか役立 たないし、後に何も残らない。なぜかといえば思考が残らないからです。僕は教育的討論会が好きです。」

  彼がいつもメモ書きなしで行動するのを見ていた僕は演説のための何か記憶する手段を使うのかと質問すると、彼は何も特別なものはなく、記憶力が良くて、そして記者たちが途方に暮れるために即興演説を好むといった。



時々だけれど、偶発的に意見を求めることは、興味深い答えをもたらすことがある。というのはどうしてだか解らないけれど、演説のための記憶と同 じように、彼の自伝に書かれた出来事のために、とって置いたのかと聞いた。そして、次のように彼は答えた。「いいえ、どうしてかといえば、僕自身の心の奥 では僕の自伝はこれから書かれると信じてるからです。」

「今もそう思うのかい。」

「今もそうです。」

  少したった後、開会された議会について話してる途中、彼は議員構成について何か注目したことはあるか、と質問してきた。「35歳 前後の多くの人々、そして多くの女性のことだけれど、その年齢以後、彼女たちは決断する核に居ないということが、とても信じられないのです。」 各企業の 取締役会に女性がいるか居ないかで【賞を与える】か【罰を与えるか】という法令を作ろうかと思い巡らしていたと語った。というのも、企業の組織図を見直していたときに、機関においての女性の不在は言語道断と思ったからだそうだ。

「どうして僕がフェミニストか知ってますか。」自分の語る事に感情的に巻き込みたいときに用いる、相手に向かって傾きよるジェスチャーをしながら聞いてきた。 「僕の母のためなんです。僕の母は熱狂的に医学が好きでしたが、あの時代には女たちは学ぶことは出来なかったから、彼女はその夢を果たせなかった。『人生で自分がやりたかったことを出来ないということを意識しながら一時間一時間、一日一日過ごすということがどんなものか分かるかい。お前にはそれを想像する ことが出来るかい。』と言ったのは、彼女の小言ではなく、家庭や家族のことで彼女を満足させていたという意味でこのフレーズを用いていたけれど、でも確か なことは彼女は実現できない情熱を持っていた。この僕の母のフラストレーションは、僕たちが学んできた歴史の中のどの時代の全ての女性たちのものだったん です。」

  まさしく、サパテロの自伝の中で不可解な意味において唯一つの暗い点は、13歳 のときにかかった原因不明の発熱にあったのだ。その病名診断できなかった病気は四年間ソファーとベットで過ごすことを強いた。サパテロがあの頃のことを思 い出す時、彼がいつも目を覚ますと、傍らに医者となって付き添っていた母が居たというのだ。僕が思ったことは、その摩訶不思議にも治ってしまった奇妙な病 気は、未成年のサパテロが医学に情熱を持っていた彼女の下から成長して離れる前に与えた贈り物のように思えたのだ。(それが確かじゃないのなら、結構なこ とをもたらした)

   カメラマンのジョルディ・ソシアスと僕が一緒にモンクロア官邸を立ち去ろうとした時には、金曜日が終わりに近づき始めていた。そして官邸には週末の雰囲 気が漂っているのが感じられた。もしも、あの男が口にすることを本当に信じているとするならば、そして彼の自伝がこれから先書かれるのが確かなら、僕たち の前には型にはまった典型的な政治家というよりも、謎の男がいたのだ。もしも僕が実際に見たことに基づいて考えるならば、疑い深い態度と共に彼に対する僕 のジレンマを解決できるかもしれない、とジョルディに言ったことを思い出す。だけど、もし僕の望むように考えるなら、読者の皆さんにテレビのブラウン管を よく注意して観ていることをお勧めします。又別の点では、偏見というものは体験の隠れみのの後ろに偽装するものなので、もう皆さんに言ってしまおう、 《ずっとテレビのブラウン管に要注意し続けてください。》

[完]



  





フアン・ホセ・ミジャス 作家。1946年、バレンシア生まれ。90年代からマドリード在住。コラムやエッセイを様々な雑誌や新聞上でも発表する人気作家。処女作『セルベロ・ソン・ラス・ソンブラス(ケルベロスは影帽子)』は1974年刊行し、この作品は格式の高いセサミ賞受賞。1990年刊行された、女優チャロ・ロペスが朗読録音した聴覚本『ラ・ソレダッ・エラ・エスト(孤独はこれだった)』、ナダ―ル賞受賞、この作品でスペイン文学の中でも、新小説の最も革新的で個性的な表現作家の一人としての評価と読者を得た。1999年にかかれた小説『ノー・ミレス・デバッホ・デ・ラ・カマ(ベットの下を覗いちゃダメだよ)』では誰もがベットの下に隠しこんでいる怪獣の影響力を物語る。その他多数の小説のほかにも、短編小説も刊行。



ホセ・ルイス・ロドリーゲス・サパテロ 政治家。1960年8月4日レオン生まれ。レオン大学法学部卒。1979年からスペイン社会労働党員として政治活動を始める。共和政府軍人であった父方の祖父(フアン・ロドリーゲス・ロサーノ[ロサーノ大尉]) は1936年フランコ総統軍に射殺処刑された。母方の祖父は医師であった。1986年26歳の年、歴代最年少にて国会下院議員に当選。2000年の第35 回スペイン社会労働党総会において、ホセ・ボノ現防衛大臣やロサ・ディアススペイン代表ヨーロッパ議会議員という強豪立候補者を打ち破り、党書記長に選出 される。2004年3月総選挙にて8年間政権を維持していた国民党から、政権を取り戻しスペイン首相に任命。二女の父。夫人はソンソーレス・エスピノサ。 彼がヨーロッパの首相官邸の中でも一番住み心地のよい官邸といった、モンクロア官邸は、マドリード市の北西広大なコンプルテンセ大学の大学都市に沿ってあ る。この建物は1600年以前に建築され、1977年6月より首相官邸として使用されています。




プエンテフエンテ 2004年9月・10月  ©2004 PUENTEFUENTE 

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