『サルバドール・ダリ  チーズの穴についての考察』 アベル・ゴンサレス

プエンテフエンテ2004年11月

チーズにかかわるサルバドール・ダリの話

    フランスがドイツ・ナチ軍の占領下地区と非占領下地区に分割されていた時期に、マルセル・デュシャンは、チーズの商人という偽の肩書きで動き回っていたと、友人・写真家のマン・レイ☆が自伝 に書きましたが、ダリはダリで、彼は画家ではなく、チーズ専門家であると自己紹介しました。 今年2004年ももうすぐ幕を閉じますが、今年はダリ・生誕 百年祭に当る年で、世界各地で様々な行事も繰り広げられました。ダリ・イヤーのイベントは、スペイン政府観光局のHPに詳しく載っています。

   アルゼンチンの新聞記者アベル・ゴンサレスが書いた一冊の本があります。『Elogio de la Berenjena』★Abel,González そ れは、世界的にとても有名な人たち、ジェイムス・ジョイス、ベートーベン、フロイト、ダ・ビンチ、ガルシア・マルケス、黒澤明、ボルヘス、ウンベルト・エ コ、ジョルジュサンドとショパン、ペギー・グッケンハイム、ヘミングウェイ、ピカソ、バルザック...の食べ物に関するエピソードを収集したもので、各著 名人のお好みの食べ物の作り方までついています。本のタイトルは、『なすびへの絶賛』で、ガルシア・マルケスの章から、抜擢したようです。

☆ マン・レイ セルフポートレイト 千葉成夫訳 美術出版社

★ Ediciones B Argentina S.A. 2000 Buenos Aires Argentina

目次

サルバドール・ダリ チーズの穴についての考察  アベル・ゴンサレス 訳小田照美 

サルバドールのチーズのお皿    アベル・ゴンサレス 訳小田照美 

サルバドール・ダリという人物について  小田照美
 
 
 
『サルバドール・ダリ  チーズの穴についての考察』

アベル・ゴンサレス


   ブレヒト◇ は【チーズが無くなった時には、穴はどうなってしまうのだろう】という気をもませる問いを打ち立てた,と 彼の息子が語ったと言われていますが、それは【電気が消えたときに、光はどこに行ってしまうんだろう】というアインシュタインの自問に匹敵するものです。 もうお分かりのように、このジレンマには唯一つの答えも見つかりません。このブレヒトの質問が成り立つために、あらかじめ幾つかの条件が必要です。とにも かくにも、チーズは欠かすことが出来ません。そしてグリエールチーズでなければなりません。どうしてかと言えば、穴のあいたチーズが身近にない限りは、こ のような類のことを考えつかないからです。第二の必要前提条件とは、本質的に美食学に関するものではなく、形而上学的疑問であるということを認識すること です。ということで、食事と言うものはいつも胃だけに関するものではないのですから、なおさら結構なことです。何年か前のことですが、ブエノス・アイレス の日刊ラ・ナシオン新聞の目端の利いた熟練の新聞記者が、ネモ(ニモ)というペンネームの陰に隠れて(その人が誰だか知ってはいますが、ここでは公表しま せん)、このような重要性のある謎の内容で、読者をいつも驚かせていました。「チーズに囲まれた穴穴の無空間は、そのまま存続するのである。チーズを食べ た後には、無空間に囲まれた無空の穴穴として残るのだ」とネモは語りました。結果は明白です。この場合においては穴は存続しているのです。

    チーズの穴についての専門家は、チーズだけが穴を証明すると表明し、もう結論を想像できるように、チーズが無ければ、穴が存在する可能性は無です。で も、これで完結するわけでもなく、多くの人々は、チーズの穴があるということは、その穴自体の中身があるのではないかと考えます。そうすれば、別の物質 (チーズ)がなくなったからといって、穴が消えてしまうのは不可能であると考えます。この仮説においては、チーズの穴はまだ存続するのです。知覚出来るも のだけの存在を受けいれるのは違う、とネモは警戒しました。多くの人が【極限より高いところにあるもの】と呼んだ神秘性について、古代ビザンチウム帝国人 が思考を巡らした際には、チーズの穴ではなく、魂あるいは天使の性別について扱っていたのでした。そうして、チーズの穴は同義性という点から、それらの尊 厳たるものと同じ次元に辿り着くのであります。

    しかしながらネモの最終的考察は、恐るべきものでした。チーズの穴はグリエールの偶有性ならば、本体が消えてしまった時には、穴は存続できないと言う 論を彼は支持したのでありました。チーズを食べちゃった後には、穴はチーズと一緒に飲み込まれて跡形もなくなるのです。しかし、無を飲み込めることなんか 出来るのでしょうか。空っぽを食べれないことはすでに誰もが承知の事実です。この場合には、おそらく穴は永久に潜在能力という縁にとどまっているのでしょ う。そうすると、僕たちは形而上学と同じテーマに行き着くのでした。ネモが言う様に穴は只単にグリエールの偶有性だったのか、あるいはチーズの極自然な結 果なのだろうか。この疑問について答える前に、チーズの歴史を語った方がよろしいかとおもいます。

   ギリシャ神話によると、オリンポ山を保護していたアリスタイオス◆ が、神々のための保存食であったこの美味しいものを人類に享受したと言うのです。この説については疑う余地があります、というのはギリシャ人よりも以前に生存していたカルディア人はチーズの利用と乱用を熟知していたということが、文献でよく知られているからです。5000年の歴史のある古代メソポタミアのシュメール人が残した粘土板の浅浮き彫り彫刻には牛乳とチーズの製造過程が描かれています。ホメロスが語るところによれば、ポリュぺモス□ は滋養に効く凝固乳を作り、大きなイグサ製のかごに入れて、大量に洞穴に収納していたといいます。しかしながら、賢いオデュッセイウス■ が、幾つかのワインの中樽をこの一眼巨人に差出、酔っ払って寝ている間に唯一の額の目に梁を突き刺す企みをした時には、彼の乳製品好きは、ワインを飲み干 す妨げにはなりませんでした。つまり、ワインは視覚を失い、ヨーグルトは少なくともワインを飲みたくさせる効果がありうる、という教えをこの物語から得ら れるのです。又キュプロクス(一眼巨人)たちがチーズを発案したと考えるのも妥当ではないでしょう。

   実際には、いつ人類が、幾つかの反芻動物の乳と凝乳酵素を混ぜ合わせて作った美味しいチーズを考案したのか明確にされていません。しかし、明らかなことはウェルギリウス△ とプリニウスが、チーズの栄養と促進特性と、そして、ワインの味をひきたてる効力があることを発見したことです。この記述には、余り困惑することは無いで しょう。たとえば、多くの人は気がつかないうちにカマンベールはクラレッヒとかサングリアと合うと間違えていますが、このチーズは辛口のブルゴーニュワイ ンを伴わなければいけません。カマンベールは(熟成されすぎたものは食べない方がよい)良質のワインを生み出さない土地であるノルマンディの産物であリます。この地では、通常、冷蔵庫から出して、片側を24時間、そしてもう一方の側を24時間平温放置しておいたカマンベールとりんご酒(ドライで香りの高い無上の喜びの)が実に調和するモノとして食されています。それから、一部の人人は、ロックフォールはカベルネ・ワインと合うと信じ込んでいますが、これは罪を犯すことにかなり近いもので、16度の気温に保ったソーテルヌ白ワインか又はオポルト・ワインにのみこのチーズは合うからです。これらのワインと一緒ならば、プロバンスの原産地以外でこのチーズを召し上がる場合には、口に突っかかるようなこのチーズも、ほんわりととろけるものと変化するからです。

    ロッフォールとカマンベールチーズについて、可笑しな逸話があります。フランス人に熱愛されたこの二つのチーズがアメリカで広まったのは、画家サルバ ドール・ダリのお陰でした。初めてアメリカ合衆国を訪ねたダリに、新聞記者たちはニューヨークの都市についてどう思うかと質問した際に、即答したダリは 【ゴシック様式のロックフォールに似ている】と答えました。多くのアメリカ人はそれまで、ロックフォールという名前を一度も聞いたことがありませんでし た。それから一週間後にダリはシカゴについて語りました。【古代ローマ式のカマンベールに似ている】。興味を深くそそられたアメリカ市民たちは、あの時代 にはこの二つのチーズを【ダリのチーズ】と呼び、美食家たちのご馳走となりました。それでも、彼らはチーズの穴については余り興味を示しませんでした。も しも、興味を持ったとしたならば、きっとグリエールの穴は熟成期間に出来上がった自然の成り行きと理解したことでしょう。もし十二分にねられたペーストな らば、穴はプラムの種大よりも大きくならないはずです。もしも大きな穴のグリエールがあったなら、素通りしたほうが賢いでしょう、あるいはそのグリエール でチーズ・フォンデュを作るのもよいでしょう。というのはそれらのチーズはワインで融解し、ビール、コーンスターチ、そして別のチーズを混ぜ、たくさんの 香辛料を加え、ウォッカ又はさくらんぼ蒸留酒の一かけと共にほてってしまったものだからです。この種のグりエールは、みんな一緒です。ですから、グリエー ルの穴が美味しく出来上がったフォンデュの表面に現れるアブクと化すように誰かが考え付かない限りは、もうブレヒトのとんでもない疑いは、もう大したこと ではないのです。

   サルドバール・ダリが1948年までのアメリカ合衆国に滞在し始めた1940年 には、画家ではなくチーズの専門家であると言いました。こういう類の発言は皆を面白可笑しくさせました。友だちを家に招いてチーズとワインだけの特別な晩 餐会を開くのが常でした。実際にダリが嘘をついていなかったのは、彼は一度も学位の称号を受けたことがありませんでしたし、又、ノルマンディ・チーズ協会 から、【名誉チーズ職人の巨匠】という称号を授与されたからでした。彼は1904年5月11日にフィゲラスに生まれました。1921年にマドリード美術学校に入学しましたが、1926年 には証書を受け取ることも無く追放させられてしまいました。パリでは、ピカソと交流した他、シュールレアリスムの前衛運動に加わりましたが、彼の右翼的政 治思想のために、このグループからも追放されてしまいました。とにかく、この時期の彼の作品は革新的なものと評価されていたのも確かなことです。彼の言葉 に耳を傾ける人に説明していたところでは、彼の絵画は夢の中の映像を表現し、日常生活の周りにあるものを奇抜、驚嘆な形の構成によって表現するのです、例 えると彼の絵画の中でもっとも有名な【記憶の固執】のねじれた時計がそうであるように、これはフロイトの理論に着想した【パラノイア的・批判的】の方法で した。

   チーズを食べると、母親の子宮に居た時まで思い出せる程の驚異的な記憶力を持てることは間違いなく、「その頃の僕は目玉焼きの形をしていた。」とダリは本気で言いました。そして預言者の能力も備えていて自分の未来を予告できるともいいました。1975年 にこう書きました。「僕の死ぬ一年前には、僕は穴だらけの美しいグリエールに変身するだろう。そして終に僕が楽園に入った後には、大地には僕の一部として グリエールの穴が残るのである。それが僕の不滅となる方法なのだ。」そんなわけで、又チーズの穴についての考察をめぐらせるに至るのでした。スウェーデン ボルグ▼ が望み、ダリが確信した現実の世界と平行する生きてる者には見えない全く同じさまの別世界においてチーズの穴についての思考されるのでしょうか。結局は、 これはチーズ好きのビサンチン帝国人の思索であり、残りの死者(煙草を吸う人たち以外)にとっては、これらの哲学まがいのものは、それほど興味をそそるも のでもないでしょう。

◇ブレヒト(1898-1956) ドイツの劇作家・詩人

◆アリスタイオス ギリシャ神話のアポロと水の精キュレネの息子。狩人、羊飼いと羊の群れの守護役や、又ミツバチを飼う事や、オリーブ栽培を発案した人として尊敬された。

□ポリュペモス、海の神ポセイドンの息子で一眼巨人。オデュッセウスに目をつぶされる。

■オデュッセイウス(ユーリシス)トロイア戦争の英雄

△ウェルギリウス (前70-前19)ローマの詩人

▼スウェーデンボルグ (1688ー1772)スウェーデンの科学者、神秘思想家。神智学的体系を立て新教会なる一派を開く。

サルバドールのチーズのお皿

   [もしも誰かがチーズの9つの掟を守らないとしたら、その人は永遠なる火あぶりの刑に処される危険がある]、とダリは言っていた。彼によると、天使たちの9段階の階層制* にのっとり、毎日9種類のチーズを食べなければならないという。昼食にはサラダとデザートの間に、4種類のチーズを乗せた藍色の陶器皿をテーブルに運ばなければならない。よい食卓の慣わしとは、あらかじめ、温水に浸したナイフで切られたチーズに、新鮮なバター、ディジョン・マスタード** 、薄切りのたまねぎ、マンゴ・チェツニ*** 、 こしょう、そして手作りのパンが備え付けられているものだ。これらの全てのもの、あるいは他のものと、チーズを一緒に食べることが出来る。お昼時には機知 に富んだダリは、食卓に、エダム、レブロッショ、グリエール、カマンベールを並べた。もちろんのこと、天使の階級性の順番で食べるのである。それから好み によっては、一杯のワイン、またはガリシア産ならなおさら結構である二杯の二番絞り蒸留ぶどう酒を飲みながら食べることが出来る。夜には(デザートの前 に、夕食には適さないサラダを抜かして)ダリは、ゴーダ、サン・ポーラン、チェダー、エメンタール、ブリーの5種 類のチーズを勧めた。チーズと共に、少しのブラックチェリーのブランディ、あるいはアルマグナ・フランス・ブランディを飲んだ。この二種とも、チーズに最 適に合うものである。王様の位を与えたロックフォールは、夕方の間食時に一杯のポート・ワインと食べるためにとって置いたのだ。ダリによれば、思いもよら なかった内面の安穏の境地に達することが出来た、この熾天使的慣わしを実行することはよいことかもしれないが、彼はほら吹きだったのである。

* 神さまに仕える天使には9階級あり、 熾天使、智天使、応天使、主天使、力天使、能天使、権天使、大天使、天使という順番である。

**フランスのディジョンの特産マスタード 

*** スパイスの効いた油漬けマンゴ

翻訳・小田照美


 
 ●●     ●    ●    ●    
 
サルバドール・ダリという人物について

   スペイン・カタルーニャ自治州・フィゲラスの公証人の父サルバドール・ダリと母フェリーパ・ドメニクの次男として1904年5月11日生まれた彼は、その3年前に髄膜炎のため7歳で他界した長男サルバドールと同じ名前をつけられた。このことが、彼の情緒的不安定をもたらしたとも言われている。

   1914年(10歳)にはダリ家と交流のあった画家・音楽家一族ピチョット家にて、フランス印象派と点描派絵画、モデスト・ウルヘル、フォルツニーの作品、フアン・グリスのキュビズム複製画を雑誌「エスプリ・ヌーボー」にて感触する。この頃自宅の屋根裏部屋にアトリエを設けて絵を描き、1919年現在は彼の美術館のフィゲラス劇場で初めての展覧会をグループ展で行う。

   1920年(16歳)にはフィゲラス市庁が彼に初の制作依頼をする。それは1月6日に行われる東方の三博士のパレードの装飾車であった。その何ヶ月後に、バルセローナのダウ・マウギャラリー主催のコンクールに入賞したダリであったが、その前に溺愛の母が死亡。

   1922年マドリードのサン・フェルナンド王立美術学校(現・コンプルテンセ大学美術学部)に入学し、レシデンシア・デ・エスツディアンテス(学生寮)に 住み始め、フェデリコ・ガルシア・ロルカやルイス・ブニュエルと交友を深める。その他、詩人・ラファエル・アルベルティ、神経組織学者・ノーベル医学生理 学受賞・ラモン・イ・カハル、歴史家・文献学者・ラモン・メネンデス・ピダル、哲学者のオルテガ・イ・ガセット、詩人アントニオ・マチャード、作家のエウ へニ・ドルスと言ったスペインの知識人、芸術家や外国人もこの寮で生活していた。この時期彼は、毎日のようにプラド美術館に巨匠たちの絵を見に出かけてい た。

   1923年、小石が空から降ってもクラスには出席すると言われていた非常に熱心な生徒であったダリは、その当時の臨補教授であった、バスケス・ディアス*の意見を支持した故に追放されたといわれている。その後、アルハンブラ宮殿近くのフリオ・モイゼス**が創設した絵画クラスに通い、翌夏のバルセロナのダウマウギャラリーでの絵画展示は、美術評論家の絶賛評価を浴びた。そして一旦1925年王立美術学校に戻ることを許された。その年4月には、約2週間妹とブニュエルと共に初めてパリに旅行する。パリに在住のスペイン人たちとも出会い、ピカソにも会えた。マドリードに戻り、6月のコース末試験の際【3人の馬鹿な教授たち】と罵り、美術史試験を拒否した騒動で、美術学校から永久追放されてしまった。その頃のダリはエッセイを書き、ブニュエルの映画に参加し、雑誌のためのイラストを描き、絵の展覧をすると言う様々な分野に情熱的に取り組んでいた。

   1929年二度目のパリへの訪問では、マグリット、アープ、ツァラ、エリュアールたちとめぐり合う。ブニュエルと共に『アンダルシーアの犬』を撮影、この滞在中に、ポール・エリュアールの妻で、ダリよりも11歳年上のロシア人ガラと出会う。その翌年の夏にパリの芸術家たちがカダケスのダリを訪ねた際、ガラはエリュアールを捨てて、(あるいはエリュアールがガラに愛想を尽かし)、その時からガラはダリにとって神話となり、夫人となり、母となり、モデルとなり、女神となり、彼の絵の世界の鍵となったのである。この年初めてパリで展覧会を開く。その際 『ウイリィアム・テルの老い』(『ウイリィアム・テルの謎』とは別な絵)の絵画を20.000フランで買い上げた収集家があり、そのお金でポルトリガトの三軒続きの漁師小屋を買った。

   30年代には、カダケスとパリの間を行き来する。『記憶の固執』(1931) はニューヨークのレビー・ギャラリー主に買われ、この摩天楼都市での絵画市場への扉を開けた。しかしながら、彼の扱うテーマが、ウイリアム・テル、メイ・ ウェスト、フェルメール、そしてレーニンまで広がり、その無思想の態度と、余りの商業根性に、ブルトンをはじめとしたシュールレアリストたち、あるいは共 産主義者たちとの断絶をするきっかけとなった。1933年にニューヨークからパリに戻った彼に、追放を言い渡したシュールレアリストたちに対して、ダリは「僕自身がシュールレアリズムなのだから追放なんて出来やしない」といった。彼の名前の文字の並びを変えて作った言葉、Avida Dollares(ドル渇望者)とブルトンがののしった事は有名である。

   初めてニューヨークを訪れたダリは、【観衆呼び込み芸人】と化したのだった。日刊ニューヨーク・タイムス新聞の初取材には、2メートルものフランスパンとサレコウベ柄つきの青旗と共に現れ、それ以降は意識的にダリ的宣伝効果を大いに利用し続けたのだった。例えると講演会には、水潜夫の格好で現れたり(窒息死寸前のエピソードも伴い)、バルセロナ市内中心ではサイのはく製にまたがったりもした。32歳の時に初のスペイン人として由緒高きタイム誌の表紙を飾っている。フランコ軍に射殺されたロルカの死の知らせの前に冷酷な態度を示した。「鏡のミロのビーナス」、「ヒトラーの謎」などの作品を描く。第二次世界大戦勃発と同時にフランス・ブルゴーニュ市の近くの町に住んでいたが、ドイツ・ナチ軍のフランス侵入のためにスペインに戻り、父に会い、そして、ポルトガル径由にてアメリカまで到達。

   1938年ロンドンにて初めてフロイトと出会う。フロイトはダリとの出会いを喜んだそうである。というのもダリの夢や幻想的世界のシュールレアリスム絵画は、まるでフロイトの精神分析論をキャンバスに描いたようなものだったからかもしれない。ダリはフロイトの肖像画を描いた。

   ヨーロッパで第二次世界大戦中、ダリはアメリカ合衆国に住み、その間さまざまな事を手がけた。億万長者の肖像がを描くことから、ボーグの表紙を手がけることまで、メトロポリタン・バレエ団の舞台制作から、自伝『サルバドール・ダリ わが秘められた生涯』(1942、和訳・新潮社)を出版するまでである。また彼の絵画収集家の中でも、93点まで買い取ったレイノルズ・モースにもこの時期に出会うこととなる。その何年後にはこの収集家はフロリダにダリの美術館を創立した。

   1948年、スペインに帰国。1936年から4年 間続いた市民戦争及びその後のフランコ独裁政権で、反フランコ総統の芸術家たちは、次々と政治亡命していた中、ついに世界的に名の知れた芸術家を世界に示 すものとして彼の帰国をフランコは大歓迎したのであった。ダリはこの交流を難なく受け入れた。ガラとダリはポルトリガトの三軒続きの漁師小屋に住み始め た。その前には広島・長崎への原爆投下のニュースに衝撃を受けて描いた、『レダ・アトミカ』と、最初の宗教画シリーズの一作となるガラが聖母となった『ポルトリガトの聖母』を描いている。この時期には、カダケス、パリ、ニューヨークを行ったり来たりしていた。また日が経つ毎に偏屈な人格の露出と、金と権力への固執の浮き彫りを激しくしていた。

   1954年にはパラノイアと批判的思考法を宣伝し、それから先の25年 間に渡っては、これ見よがしのパーティを開き、人々の注目を浴びるような発言、百万単位の収入、びっくり仰天するような奇妙な行動と共に、国際関連記者た ちは、彼の行動を【ダリ・サーカス】とまで呼んでいたのだ。ダリのニュースは日常茶飯事で、ポルトリガトの家には、毎夏になるとウォルト・ディズニーから ジョージ・ハリスンまで次々と世界的に有名な人々が訪れていた。一方、この時期には入れ替わり立ち代わり、何人かの秘書が居たが、ダリの信頼を裏切り、彼 の絵画の著作権を乱用した事実もあった、しかしながら、作品を乱用したのは、彼らのみならず、本人のダリが乱用していたことも事実であった。コントロール 無に彼の作品の複製を許可する、あるいは彼の作品の中に出てくる一部分から着想を得たものを商品化する許可として、何千枚もの白い紙にダリはサインしま くったのである。香水から、ブローチ、唇ソファーあるいは嘘と一目瞭然のリトグラフに至るまでダリの万物は世の中で売られているのである。

   1959年、彼の歴史的人物シリーズを描き始める。「クリストファー・コロンブスの夢」

   1966年、ニューヨーク現代美術ギャラリーが、生存する画家・ダリの大回顧展を開く。

   1971年、アメリカ、オハイオ州、クリーブランドに初めてのダり美術館開館。

   1974年、ダリはフィゲラスのダリ劇場美術館を開館。1979年にはフランス芸術アカデミー会員に選任され、パリ・ポンピドー・芸術センターでのダリ大回顧展が開かれた。

   1981年から年老いたダリは、絵を描く意欲を失っていたが、スペイン国王フアン・カルロスI世の主唱により、カタルーニャ政府はスペイン国内および外国にある彼の作品を取り戻すために買い始めたのである。スペイン政府は、彼が滞納していた税金を、絵を買うことによりご破算にした。彼の大回顧展開催を企画し、侯爵の称号【プボール侯爵】を与え、1983年彼の財団まで設けることにいたった。

   1982年10月10日亡くなったガラの遺体を、ガラにプレゼントしたプーボル城に埋葬した後、二年間は失望のどん底で城に閉じこもり、その間弁護士、秘書、絵描きの友人といった限定された訪問を受けた。特別な病気にもかかっていなかったが、医師と看護婦の監視の下生活していた。1984年火事が起こり、大やけどを負った際にも、手術と治療養で彼は生きながらえたのだ。

   晩年の何年か前から、ダリ劇場美術館に隣接したガラテアの塔に住んでいた。1989年1月23日、パリのマキシム・レストランのバイオリン演奏のテープを聴きながら息を引き取った。その音楽はおそらく彼の人生の中でもっとも幸せだった頃を回想させたに違いなかったのである。

   彼の遺書には、全財産をカタルーニャではなく、スペインに遺産譲与すると記してあったという。

*ダニエル・バスケス・ディアス(1882-1969)20世紀初期起こったスペイン新キュビズムを代表する画家。

**フリオ・モイセス・フェルナンデス・デ・ビジャサンテ(1888-1968)伝統保守的技法により現実主義派の肖像画を描いた画家。マドリード・聖フェルナンド王立美術学校の名誉教授でもあった。

プエンテフエンテ2004年11月           ©2004小田照美

No hay comentarios:

Publicar un comentario