ホアキン・ホルダ  ある自由な男についての再報告      チュス・グティエレス

スペインの現代映画 Puentefuente2005年9月

2005年8月10日水曜日刊行エル・パイス誌より。

 

     1987年 私がニューヨークから戻ってきたとき、ホアキンと初めて会った。マドリードに着いたばかりの時期で、私は映画制作に取り掛かりたかったものの、業界にどの ように入り込む術も、誰一人として伝となる人も知らなかった。誰だったか忘れたけれど、ホアキンの電話番号を私にくれた人がいて、連絡を取ってみた。彼は 大柄な、包容力のある、野心的で好奇心あふれた53歳の男だった。マドリード植物公園を背にしたアルフォ ンソ十二世通りの彼の自宅に私を招いてくれた。この最初の出会いについては私の脳裏に深く鮮明に刻まれている。というのもそれは有る意味において私たちの 関わりが永続的なものとなったからだ。当初は三十分ほどの会話の予定であったものが、何時間も続く会話となった。彼はちっとも急いでる風には見えなかった し、ましてや特別に緊急を要する用事も無い様子であった。ついにはわたしたちは一緒に食事をとり、午後になって別れた。

     その後十年が経ち、1997年ホアキンは脳梗塞で倒れ、バルセローナに移住した。たびたび私たちは会って、そうして2本の映画プロジェクトをこなした。私は彼の傑作『狩人の依頼』(EL ENCARGO DE CAZADOR)の助監督として、彼は私が監督した作品『ジプシーの魂』(ALMA GITANA)の脚本を書いた。こうした彼との出会いの間に絶対的な本質について語り、一般的な固定観念から開放された物事に対する見方をいつも示してくれる人間を発見したのだった。

     ホアキンは公証人の息子で、1935年8月1日にサンタ・コロマ・デ・ファルネルス注1で生まれた。高等教育過程をバルセローナ、バレンシア、レウス注2に渡って 受けた後、家族の執拗な要求で政治法律学の大学教育の道に進む。大学に籍を置いた頃から政治に対する好奇心が目覚め始めて、他の学生たちと最初のバルセ ローナ大学共産主義の核となる団体をつくりあげた。「あの頃の僕はとても楽観主義でその時期には革命がすぐにでも起こる時期だと思い込んでいたし、もうす ぐすべては変わってしまうだろうと思っていたし、共産主義社会に弁護士になるなんて、何の意味を持たないと信じていた。」 1952年には初めてパリへと旅行した。その滞在中の時間の殆どを映画館で過ごしたのであった。

      その時代にはホアキンはいつも文学に身を捧げようとしていたし、数多くの短編物語を書き、そしていまだに書き終えられていない途方も無く長い小説 を書き始めた時であった。しかしながら、彼自身が語ったように、「人生の中でパッタリと出会う偶然の出来事によって、殆どがより良い方向に向かうの か...」終には映画の魅力に引きつかれてしまったのであった。この数年間に抱いていた政治的な斜傾向により、自分の特定したメッセージを人々に伝達でき ると言う点においては、文学より映画のほうがより適していると言うことが映画の道に進む決断の理由となった。

     1958年から1959年の間にはマドリード映画学校で学び、1949年に創立のスペイン共産党と密着につながりを持ち、ホセ・ルイス・ガルシア・ベルランガ監督注3の『ようこそ、ミスター・マーシャル』(BUENVENIDO,MR. MARSHALL)と言った作品を製作した映画プロダクション会社 UNICI で働き始めた。

     UNICI とフアン・アントニオ・バルデム注4は、ホアキンの映画第一作『死人たちの日』1961年(EL DIA DE LOS MUERTOS)を製作。共同監督はフリアン・マルコスであった。映画は12分で市民の大多数人が墓参りする〔すべての聖人の日(毎年11月1日)〕に撮 影され、その日のための商いに焦点をあわせたものであった。その当時の映画倫理委員会はこの映画の上映を禁止した。「わたくしが判断する限りにおいては、 このドクメント映像は、世俗風潮的な観点から製作されたと思われます。何度と前面に映し出される映像は、故意に悪い意図を持っていて、例えると、コンドル 部隊注5の映像でした。また登場する民衆の殆どは着古した汚れた服で映し出され、このような社会風潮が多くの主要場面に映し出されます。また別の観点から申し上げますと、映画としての価値がまったくあるとは思われません。」(1962年12月19日署名は読み取り不可能、映画選別倫理委員会文書より)

  1962年 には個人的あるいは政治的精神落ち込みと、共産党の集会に出向くこともやめてしまった後、ホアキンはバルセローナに戻った。そうして60年代には【バルセ ローナのガウチェ ディビーネ】と呼ばれるグループに属する。このグループは文化や政治傾向の教養文化人や芸術家たちの集まりで、その頃には絶息状 態のフランコ支持体制派の説得には信頼を置かない人々であった。ビセンテ・アランダ(映画監督)、リカルド・ボーフィル(建築家)、ハシント・エステバ (建築家、画家、冒険家)、カルロス・デュラン(映画監督)、ゴンサロ・スアレス(映画監督、小説家)と言った人々とそしてホアキン・ホルダが『バルセ ローナ派』と呼ばれ知られている映画の流派をつくりあげた。ここでは映画制作費用折半、グループによる共同制作、体験的であり前衛的志向の特性、非アカデ ミズムおよびプロではない俳優たちや製作者たちの教育を推進すると言う主旨を持っていた。1967年にはハシント・エステバとともに『ダンテはただ単に厳格であるだけではない』(DANTE NO ES UNICAMENTE SEVERO)を監督する。バルセローナ派の映画が商業的に失敗に終わったり、幾つかの映画制作の着手が不可能という状態に陥った後、ホアキンはイタリアへ〔革命を起こすために〕と言いながら旅立った。イタリアでは政治闘争的な映画(PORTOGALLO PAESE TRANQUILLO、1969年 や IL PERCHE DEL DISSENSO LENIN VIVO、1970年、I TUPMAROS CI PARLANO、1970) を 撮影した。このような映画に欲求を満たされなかった彼は映画制作を投げ出し、直接に政治扇動活動を始める。一筋縄では動かせない特質のホアキンは、政党の 中の一員としての義務や責任と言う規定の枠にはめることは出来ない人物であった。「ホアキンは、トロツキー主義も含めたすべての異種政治派のソ連共産党支 持派から無政府主義、ヒッピー文化批判主義、またはほんのつかの間とはいえ、カタルーニャ国家主義者たちと本気ではないにしろあいまいな交流もした。とは いえ、彼の中で基本となっていた懐疑主義や、激情とも言える極快楽主義,そしてあらゆるものに対する快食的生活というものが、それらの政治的過剰行動を緩 和調整していた。」(ローマン・グべルンが『行きの旅』ROMAN GUBERN、 VIAJE DE IDAにてホアキンについて書いた文)。

     1973年 には映画と政治の世界にかなり幻滅し、バルセローナに戻り、ホルへ・エラルデの率いるアナグラマ出版社を主に翻訳の仕事に携わった。「翻訳の仕事は以前に も何度かしたけれど、僕にとっては創造的な職業だった。プロの翻訳家としての域に到達したと思う。この数十年の間翻訳のおかげで食べてこれたし、それは僕 の唯一の収入源でもあった。」

     1979年には『ヌマックス提供』(NUMAX PRESENTA)と言う名の、特異の映画プロジェクトの関わる。ヌマックスとは、破産寸前状態であった扇風機や家庭電化製品の会社で、工場の労働者たちは、会社を存続させるための労働者の要求としてストライキ闘争を始め、それは2年間にも及ぶものとなった。この無力とも言える労働者たちの抵抗の闘いを記録として残すために映画にすることになった。

      ホアキンがその撮影を受け持つことになったが、この映画が、彼の持つ才覚と創造性を極上の位置まで持ち上げられる能力を発揮させ、映画ジャンルの 中でも彼の最も位置すべき領域であると言うことを、撮影し始めの頃には気がつかなかったのであった。それはドクメント映画だった。

     1991年には彼のプロジェクトの中でも特に興味深い作品のひとつとなった『狩人の依頼』(EL ENCARGO DEL CAZADOR)を 撮り始める。ハシント・エステバを取り扱う身の毛のよだつドクメント映画だった。酒と麻薬を主に自己破壊してしまう男の経過と、その結果彼の周囲の人々を 巻き込んでしまうと言う記録だ。ハシントの娘ダリアは、この記録映画の主核となる語り役である。彼女は見ている私たちを、とても重苦しく耐え難い感情に よって導くのであった。

     ホアキンは昔の親友に再会し、夢と闘いを共感しあった人々のグループがあった時代を語る意識を持って、このプロジェクトに取り組んだ。「ガウチェ・ディビネ」、それは25年経った後の勝利者と敗北者の世界の肖像であった。ハシント・エステベは敗北者の一人であった。

      このプロジェクトの制作以来、ホアキンは更に興味深い作品をつくりあげていく。ドクメント映画の中で語るときに、彼独自の視点を加えるのであっ た。監督は何らかの形で、映画の中でもう一人の人物に姿を変えて、彼が感じ取ったことを彼の見つめる目から私たち鑑賞者に伝えるのであった。「彼は手加減 無しに真実をぶつけて私たちにショックを与える。残酷と言ってもいいくらいに目の前が真っ暗な将来性をかたり私たちを錯乱に落としてから、教養による自己 皮肉の〔飲み薬〕によって私たちの傷を癒してくれる。彼は痛みを私たちが感じると言うことは、必ず治ると言うことを知っていたのでした。」(ダリア・エス テバがホアキンについて語ったこと)

     『ベッキーのような猿』(MONOS COMO BECKY、1999)では、私たちを狂気の世界へと入り込ませる。脳梗塞で倒れた後の変化した彼のものの見方による彼の狂気でもあった。そしてそれは誰もが皆正気の内に秘め隠した狂気をも示していた。

     2001年の『子供たち』(DE NINOS)では1997年に起こったラバル地区のぺドフィリア犯(幼児性愛犯)の事件を通して私たちが生きている非論理的なる劇のような社会について語っている。そこでは、検事たちやぺドフィリア犯たちはまるで幼稚に遊んでいる世界で、つまり彼らは子供のように、子供に関することを、子供たちと一緒に遊んでいるのであった。

     この記録映画は、私たちに別の形の判決を下す視点を提供してくれる。私たち自身の認識で判決を下すと言うことだ。

     まだ上映されていない2004年制作の『20年は、なんでもない』では、再び『ヌマックス提供』の工場の労働者たちを訪ねるのであった。25年と言う時の流れの後、彼らの希望、夢、理想郷がどのように変わって行ったかと言うことを語るのであった。

     脚本家、翻訳家、映画監督、教授、一筋縄ではいかない...。今現在、彼自身にも分からない病気の治療を受けているほかに、亡命中のカタルーニャ作家についてのドクメント映画のモンタージュを終わらせているところである。

  この瞬間、何が正しく何が間違っているのか、政治的に正しいのかまたは間違っているのか、はたまた倫理の前に無条件的優先経済尺度からなる不正操 作思想の世の中で、ホアキンは彼の視点とともに私たちに質問を投げかけてくれる。いつもいかなる提起には、ひとつの確固たる真実は存在せず、何百ものの真実と無限なる嘘が隠れていると、ホアキンは私たちに疑問の余地を与えるのであった。

     物事をみつめる彼の視点は、いつも問題点を解決させ、独自性であり、そして強靭なのである。私にとってホアキンは、常に生命力と創造性そのもので、彼は精神的なパトロンなのである。


 

注1サンタ・コロマ・デ・ファルネルス市 SANTA COLOMA DE FARNES カタルーニャ自治州、ジローナ県。県の首都ジローナからから南東24キロ。人口は約8600人。戻る

注2     レウス REUS カタルーニャ自治州・タラゴナ県の都市。人口9万人。戻る

注3     ルイス・ガルシア・ベルランガ LUIS GARCIA BERLANGA(1921- ) スペインの現代映画監督の中でも国際的に著名な巨匠監督のひとり。1921年6月12日バレンシア生まれ。1951年、バルデム監督と『あの幸福なカップル』(ESA PAREJA FELIZ)を共同監督した。1952年のカンヌ国際映画祭受賞作品『ようこそ、ミスターマーシャル』を監督、1956年『カラブチ』(CAKABUCH)、1984年には『子牛』(LA VAQUILLA )、『全員、監獄入り』(TODOS A LA CARCEL、1993年)、『喜び』(PLACIDO、1961年)、ヴェネチア国際映画評論家連盟受賞作品の『THE HANGMAN死刑執行人』(VERDUGO、1963年)などの作品がある。バルデム監督同様、フランコ独裁政権時代には、映画倫理委員会から作品上映禁止の圧力を受けた。戻る

注4     フアン・アントニオ・バルデム JUAN ANTONIO BARDEM (1922-2004)スペイン現代映画を代表する巨匠監督、脚本家。ジローナ県アンプルダンから移住してきた劇場俳優たちの家族のもとにマドリードで生まれた。家族のたっての願いにより、工業技師の大学教育課程を受けるものの、1947年には後にマドリード映画学校となる映画実践研究所に入り、そこでルイス・ガルシア・ベルランガ監督と知り合う。『ようこそ、ミスターマーシャル』の脚本を書き下ろした後、1951年にはベルランガ監督と『あの幸福なカップル』(ESA PAREJA FELIZ)を共同監督した。フランコ総統支配下の状況で、その当時スペイン共産党に属していたバルデム監督の作る映画は、映画倫理委員会によって上映禁止される憂き目だったものの、この時期、バルデム監督は傑作を生み出していた。『喜劇俳優』(COMICOS、1953年)、ヨーロッパの映画評論家たちから映画の歴史の中でも最も優れた作品のひとつと評価された『自転車走者の死*恐怖の逢引』(MUERTE DE UN CICLISTA、1955年)、『マジョール通り』(CALLE MAYOR、1956年)、『絶対に何も起こらない』(NUNCA PASA NADA、1963年)。総統の死後、スペインが民主主義社会となり、『1月の7日間』(SIETE DIAS DE ENERO、1978年)、『忠告』(ADVERTENCIA、1982年)、『ロルカ、一人の詩人の死』(LORCA、MUERTE DE UN POETA、1987年)、『青年ピカソ』(JOVEN PICASSO、1992年)。女優のピラール・バルデムは彼の妹で、その息子は俳優ハビエル・バルデム。戻る

注5     レヒオン・コンドルLEGION CONDOR 1936年7月に勃発し1939年4月1日に終戦したスペイン市民戦争の際に、フランコ総統が率いる軍隊に勢力協力したドイツ・ナチス軍の戦闘機隊。1937
年4月26日に、このドイツ空軍隊は、パイス・バスコのゲルニカ市を空中から爆弾攻撃した。戻る

チュス・グティエレス 女優、映画監督、脚本家。1962年生まれ。

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