PUENTEFUENTE 2005年3月と4月
前書き
この「ミゲル・デ・セルバンテスの生涯」は、要約で済ませようと当初考えていましたが、余りの興味深さに、読んだり聞いたりしたことは全部書いてしまおう、という気持ちになってしまいました。長くなりますと、申し上げます。
セルバンテスの生涯は、起伏の激しい物語であり
ますが、そんな奇想天外なさまざまな出来事の合間にごく自然な誰でもが持ちうる幸福感、愛情や人間のもろさなど、ほんのりとする人間味を感じる出来事を垣
間見て、特別な奇抜さや栄光、失敗といった側面だけを書くのは、不足なのではないだろうかということも、長くなった理由です。
前編
幼少年時代とその家族
コルドバ
アルジェでの捕虜生活
帰国
『ラ・ガラテア』
戯曲『ヌマンシアの悲劇』と『アルジェの条約』
恋に落ちる
アメリカへの夢再び
裁判
徴税官任務とわな
セビージャの牢獄
トレドへ『ドン・キホーテ』執筆
バジャドリードへ
『ラ・マンチャの才覚郷士ドン・キホーテ』初刊刊行
売れまくった『ドン・キホーテ』と海賊版の出現
ヨーロッパに広がる『ドン・キホーテ』
著名な画家たちによる『ドン・キホーテ』の挿絵
殺人犯容疑
マドリードへ、娘イサベルの再婚
信仰心
訣別と夫婦の結束
『模範小説集』『パルナソの旅』『一度も上演されることのなかった8つの喜劇と8つの幕間狂言』
偽作ドン・キホーテ
正真正銘『ラ・マンチャの才覚郷士ドン・キホーテ続編』
最期
セルバンテス協会
ミゲル・デ・セルバンテスの生涯 前編
幼少年時代とその家族
ミゲル・デ・セルバンテスの幼少年時代の物語は、セルバンテスの家族の物語といっても過言ではありません。時代としてはちょうどコロンブスのアメリカ大陸発見から約50年後以降で、スペインの政治・経済・社会・文化の黄金時代を迎え、日の沈まない国と呼ばれ、栄光と繁栄の頂点でありました。セルバンテスはこの幼少年時代をスペインの5大重要都市で過ごします。
アルカラ・デ・エナーレス
セルバンテスの一家はスペインの各地を点々と移住を繰り返してしていましたので、18世紀まで我都市こそが文豪セルバンテスの出生地であると10にも及ぶ都市が名乗りを上げていました。そうして18世紀にマドリードから約30キロ東に位置するアルカラ・デ・エナーレスの教会で、1547年10月9日付けの洗礼式の証明が発見され、この地が出生地であることが明らかになります。セルバンテスの出生証明書は現在のところ発見されていませんが、研究者によると洗礼式の12日前である9月27日がほぼ確実なのではないかといわれています。洗礼名はミゲルです。
ミゲル・デ・セルバンテスの父方の祖父フアン・デ・セルバンテスは、1470年コルドバに生まれましたが、サラマンカ大学で法学を学び、1500年ごろにレオノール・デ・ト-レブランカと結婚して、アルカラ・デ・エナーレスに居をかまえました。セルバンテスの父ロドリーゴ・デ・セルバンテスは、次男として生まれました。1538年
に祖父母は別れ、祖母は息子二人とアルカラ・デ・エナーレスに留まり経済的に不安定な生活を送ることになりました。一方祖父フアンは、故郷コルドバに戻り
カトリック異端審問所の弁護人として安定した生活を送ります。父ロドリーゴはアルカラ・デ・エナーレスの上流階級での社交生活を送っていましたが、両親の
離婚をきっかけに下層階級の平民の世界に入り込むことになります。1542年、アルガンダの農作民の一人
娘のレオノール・コルティーナと結婚しますが、両家ともどもにこの婚姻を認めませんでした。そうして父ロドリーゴは外科医として働き始めるものの、当時の
社会階層では外科医は他の手工職人と同じ位の扱いだったため、十分な収入にはなりませんでした。そうして最初の結婚生活6年の間に、アンドレア(女)、ルイサ(女)ミゲル、ロドリーゴの4人の子供たちが生まれます。
1551年当時経済・
商業の発展の主要都市と考えられていたバジャドリードで、父は一旗揚げようと意気満々に移住しましたが、現実はかなり違うものとなってしまいました。セル
バンテス家の収入には場違いと思われるマンションに住み、お手伝いと助手を雇い、万事うまく行くだろうと高をくくっていた楽観的な父ロドリーゴでしたが、
事業は短期間のうちには功を奏さず、その年の暮には借金申しこみを余儀なくされます。4万マラベディの借金は一年厳守返済条件で貸与されたものの、元金はもとより利息さえも返済できなかったために、1552年に父は投獄され、母親の名義以外の資産は全て差し押さえられ、それから三度にわたって保釈金を払っては、出獄しましたが、借金不払いは続き入獄を繰り返すのでした。翌年1553年
の初頭、賃貸していたマンションの全ての動産を売り払い、ついに返済を済ませて出所した後、家族はバジャドリードを後にしました。ミゲル・デ・セルバンテ
スは、このバジャドリード時代のエピソードを彼の作品の中にはいっさい反映させませんでしたが、家族が苦い思いで去ってから50年後には、作家セルバンテスが成功の喜びを味わうのもバジャドリードです。
再びアルカラ・デ・エナーレスに戻ったセルバンテス一家は、暫くの間新しい生活のリズムを得よう
としていましたが、その年にコルドバに移住することに決めました。そうして父ロドリーゴは妻と子供達を残し、一足先に母のレオノール・トーレブランカと共
にコルドバへ向かい、別居の父フアン・デ・セルバンテスと再会しました。再会当初は親密とはいえなかった父子関係も、時の経過と共に和らぎを見せます。再
び父ロドリーゴは借金取りの往来の暮らしに戻るのでしたが、祖父フアンは息子のためにサント・オフィシオ刑務所とラ・カリダー病院での外科医の仕事を見つ
けてきたのでした。このようにして経済基盤を整えたロドリーゴはアルカラで待っていた妻と子供たちをコルドバに呼び寄せました。
父ロドリーゴは、子供たちへの教育に関しては非常に熱心で、文盲の多かった庶民はもとより、読
み書きができる女性たちが稀だった時代にセルバンテスの姉たちは読むことができたのも父ロドリーゴの教育方針からです。このコルドバでミゲル・デ・セルバ
ンテスは、初等教育を受け、読み書きを習い、特に読書に非常に関心を向け、年齢比にして読解力に優れていました。セルバンテス家の親類に当るアロンソ・
デ・ベラ神父が校長であったイエズス会の学校にセルバンテスは通っていました。その当時コルドバで流行っていた悪漢小説を元に書き上げた劇や、ロぺ・デ・
ルゥエダの興行劇、人形劇をよく見に出かけ、この時期は将来作家となるための収穫時期ともいえました。セルバンテス一家はこのように平穏に暮らしていましたが、1556年3月に祖父フアン・デ・セルバンテス、その翌年には祖母レオノール・トーレブランカが続いて他界したのをきっかけに、一家はグラナダに住むロドリーゴの兄アンドレスをたずねた後、そこからセビージャへと移住しました。
16世紀中期のセビー
ジャは、新アメリカ大陸から運ばれてくる金銀財宝が入る玄関都市で、国内でも最も繁栄を極め、ヨーロッパでも三本の指に入る重要都市でした。父ロドリーゴ
はセビージャでも裕福な地区のサン・サルバドール教区にて外科医として働き、また不動産賃貸代行業を始めました。18歳
だったミゲル・デ・セルバンテスは、セビージャでもイエズス会の学校で学び、その教師陣の一人であったアセベト神父は、セビージャの上流階級の観客の前に
イエズス会学校徒が演じる劇場を主宰していました。以前からロペ・デ・ルゥエダの作品に惹かれていたミゲル・セルバンテスでしたので、この劇世界を身近に
していた環境によって、益々戯曲の世界へ引き込まれていきます。このようなミゲルの文学的転機といえる時期に、姉のアンドレアは、未婚の母として貴族出身
のニコラス・オバンドとの娘コンスタンサを出産しました。後々セルバンテスは、この姪の名前のヒロインの作品を書き上げています。
1565年、サン・フランシスコ広場での死刑執行に遭遇したセルバンテスは、その無惨な映像を脳裏から拭い取ることはできないほどの衝撃を受けます。
また同年、もう一人の姉、ルイサはアルカラ・デ・エナーレスのカルメロ・デ・ラ・コンセプシオ
ン修道院に修道女として入門することを決意し、儀式のために家族はアルカラへと旅をしたり、ロペ・デ・ルゥエダの埋葬式参列のためにコルドバへも行きまし
た。そうしてセビージャに戻ったときには、父ロドリーゴは再び借金地獄に陥ってしまいます。セビージャに残っていたアンドレアは、父への訴訟の遅延を得る
ものの、父はセビージャを去ることを決意し、姑のエルビラ・コルティーナが残した遺産のあるアルカラ・デ・エナーレスに向かい、1566年家族はマドリードへと移ります。
フェリーぺ二世国王が宮廷を1561年にマドリードに移したのにはいくつかの理由がありました。当時建築予定のエル・エスコリアル宮殿の建築工事進行を監視するのに近い距離であったことと、彼の父カルロスI世(ドイツ・カルロス五世)が首都はイベリア半島の地理的中心にあるべきだという望みの実現でした。
父ロドリーゴは、外科医を廃業し、義母の遺産を元手に、金融貸し付け業やヨーロッパの商人との
金融取引業を始め、セビージャでの経験を活かして貸間や賃貸不動産代行業もしていました。そうして、イタリアの売買業者ピーロ・ボッチやフランシスク・ム
サッチ、又マドリードで劇興行を主催していた元ロペ・デ・ルゥエダ劇団喜劇役者であったアロンソ・へティーノ・デ・グスマンとも交流を深めていました。
姉のアンドレアは、娘の父ニコラスを忘れられず、結婚する希望を捨てずに、マドリードに家族よ
りも一足早く到着していました。そんな願いとは裏腹に、幾つかの不運やすれ違いが生じたあとニコラスは彼女を捨ててしまいます。それから彼女の元に嫁入り
資金にも匹敵するほどの贈呈金を与えた者がおりました。贈呈主はイタリアの商人フアン・フランシスコ・ロカデロで、アンドレアが以前におこなった手厚い治
療と彼への暖かい心遣いへのお礼でした。
二十歳のセルバンテスはへティーノの影響もあり、作品を書き始めていましたが、フェリーぺ二世
国王とイサベル・バイロス皇后のカタリーナ・ミカエラ第二皇女の生誕に捧げるソネットを学校の国語の授業の一環として書きあげました。この作品は即興的な
もので、余り手を加えていませんでした。
ペドロ・ライオス、ロペス・マルドナード、ガルベス・デ・モンタルボなど当時の作家達との交流
や、ラ・クルスやパチェカ中庭劇場に頻繁に出入りしていたセルバンテスのとって文学界の扉は大きく開かれていたのでした。そうして皇太子出産の際に皇后が
母子ともに亡くなり、皇后の葬儀の追悼劇を請け負っていたフアン・ロペス・デ・オージョはセルバンテスに協力を求め、セルバンテスはソネット、バラード、
レドンディージョ(四行詩)、エレジーを書きました。
1569年9月15日学生であったセルバンテスは、アントニオ・デ・シグラと決闘をし負傷を負わせたかどで投獄の命令を受けました。決闘の原因は明らかにされていません。刑罰は10年
間の国外追放と右手の切断といわれ、ミゲル・デ・セルバンテスはセビージャに逃亡し、父ロドリーゴが用意したマドリードの執行官であったアロンソ・へ
ティーノ・グスマンと、イタリアの銀行主ボッチとムサッチの保障人状を手に、そこからイタリアに向かい、ローマに到着したのは1569年暮れでした。到着してすぐに、1570年
には教皇の最高顧問の枢機卿と昇格するアクゥアビバ司教に奉仕し、審議会でも奉仕するような召使としては大変厚遇された仕事を与えられていました。この
ローマの滞在中に、ボカッチオやパトラルカといったイタリアの巨匠たちの名作に触れるという絶好の機会を逃すことはしませんでした。父親の性格を受け継い
だ大きな野心を抱いていたセルバンテスは、この年には司教のもとを去ることに決め、軍務に仕える手はずを整えます。そうしてアルバロ・デ・サンデ隊長率い
る部隊に加わるためにナポリへと向うのでした。
軍隊生活の始まり
フアン・デ・アスツゥリア司令官率いるスペイン軍とベネチア共和国軍隊のキリスト教連合艦隊は1571年に結成され、トルコ軍に対抗します。ペドロ・ライネス、ロペス・マルドナードや、後々友人となる詩人作家で『エル・モンセラ』『アルティエダ』の作者クリストバル・デ・ビルーエスも同じ部隊にいました。
その夏にディエゴ・デ・ウルビーナ率いる部隊がイタリアに到着しますが、その中に弟のロドリー
ゴがいました。おそらくロドリーゴは、軍人志願よりも、生活の糧を得るための必要性からの軍隊加入と思われました。貴族階級でもっとも低い位の郷士だった
ミゲル・デ・セルバンテスにとって、聖職者になるか、アメリカ新大陸に向かい功績を挙げるか、または軍隊の道を選ぶこと以外、社会階級制度社会で地位を上
げることはなく、彼は軍隊の道を選んだのでした。
ミゲル・デ・セルバンテスの人生を大きく変えた「レパントの海戦」は1571年10月7日日曜日に勃発しました。セルバンテスはこの海戦に参加したことをいつも誇り高く思い出していたに違いないのです。200隻のガレー船、50隻のフリーゲート艦、8万
人の軍隊を率いた強豪な敵陣トルコ軍に対し、スペイン・イタリア連合軍「キリスト教連合艦隊」は、軍隊魂もない雇われ兵の多かったベネチア部隊への補強の
ために、フアン・デ・アスツーリア・スペイン総司令官はディエゴ・デ・ウルビナ率いる『マルケサ』ガレー船をメッシーナから送りました。火縄銃兵のセルバ
ンテスは、他の200兵士と30海兵、200漕兵と共に、10日間の航海の後コルフ島へ到着します。軍の司令官達は、オスマントルコ軍によるファマゴスタの大虐殺やチピリオータ森林焼却の報を受け取り、10月6日にはコリント湾沿岸内部は全て占拠されている予測がついていました。トルコ軍勢はさらに2万人の兵士、約100隻ガレー船を補強しますが、スペイン・イタリア連合艦隊の1800火砲に対して、750火砲しか備えていませんでした。コルフ島を出航してから,セルバンテスは船酔いとマラリアにかかり、医務室に留まることを余儀なくされていました。
10月7日
に連合部隊はドン・フアン・デ・アスツリア司令官の檄と、ピオ五世ローマ法王の祝福の恩恵を受けます。正午過ぎに、最初の相互大砲襲撃が始まり人類に例を
見ない最大の海戦の口火が切られたのでした。病床の身であったにもかかわらずセルバンテスはガレー船の補充用小船に乗り込み、襲いかかってくるトルコ人達
をかわしながら、勇敢に戦っていましたが、敵の火縄銃が胸と左手に当り、左手は一生不自由となってしまいました。そうこうするうち、イタリア・スペイン連
合軍の優勢を極めていたところ、トルコ軍司令官アリ・パシャが捕虜によって暗殺されてしまったことが、海戦の勝敗の行方を決めました。そうして午後には連
合軍によるトルコ海軍からの略奪が始まります。
この史上最大なる海戦の被害統計は、決して両海軍にとって喜ばしいものではありませんでした。トルコ軍は3万人、連合軍は約1万人の死亡者数に上り、負傷者は両軍合わせて約6万人にもなりました。この連合軍の勝利により、不滅のオスマン・トルコ海軍の海上覇権伝説に終止符を打ち、ヨーロッパキリスト教徒の海上制覇への期待感を高揚させるものでありました。
重傷を負ったセルバンテスはシシリア島の北東端に位置するメッシーナの病院に海軍隊によって運ばれ、治療に何ヶ月間とかかります。回復した後1572年4月、
軍隊に復帰したときには『エリート兵士』として昇格し月額3エスクードの報酬を受けるようになりました。レパント海戦の勇士セルバンテスは、マヌエル・ポ
ンセ・デ・レオン司令官率いる中隊軍の中の、ロペ・デ・フィゲロア隊長の歩兵連隊に加入します。レパントの海戦では勝利を得たものの、連合艦軍は地中海域
制覇の戦いは続きます。
1575年冬、パレル
モにいたセルバンテスは、弟ロドリーゴのいるナポリへと向かい、この年に軍隊生活に終わりを告げます。その理由としては、軍隊の編成が組まれなかったこと
や、軍人収益がなかったこと、そして、スペインに住む家族が貧困生活に落ち込んでいる知らせが入ってきたことからでもありました。このイタリアでの生活、
特にナポリにおいての生活が彼の作品 『パルナソ山への旅』 (本田誠二訳 行路社 1999) 『ラ・ガラテア』 (本田誠二訳 行路社
1999)、 『NOVELAS EJEMPLARES模範小説集』、 『ペルシーレスとシヒスムンダ』[YUN4] などに反映描写されています。友人のペドロ・ライネスは、イタリア文芸サロンの詩人たちを紹介したり、ペ
トラルカ、ボカッチオ、アリオスト、ボリアルドといったイタリアの文豪たちの作品をセルバンテスは読みふけったのは確かでありましたが、後に書かれる彼の
作品には、この文豪たちのスタイルのみに制限されてはいませんでした。
帰国の途に
1575年、カルロス二世の義弟のフアン・デ・アスツーリア軍司令官とセッサ公爵の推薦状をもらったセルバンテスは、航海船「ソル」(太陽)
に乗り、ナポリからバルセローナへと向かいます。このフリーゲート艦ソルには、弟ロドリーゴのほか、幾人かの名の知れた友人たちも乗船しており、三隻の補
佐護衛艦を付き添っていたものの、大嵐のため航海は難航し、航路をはずれ、護衛艦とも離れてしまったところに、北西ベルベル族の海賊船に遭遇します。海賊
たちと戦うものの、船長と何人かの乗組員は殺され、生存者は海賊船の何隻かの艦艇でアルジェへと連行されました。海賊たちの捕虜の身となってしまったセル
バンテスは絶望の窮地に陥りますが、到着する前に想像していたものとはまったく違っていたアルジェの町に驚きを示したのも確かなことです。人々で満ち溢れ
活気に湧き上がった、豪華爛漫な印象を受けるのでした。アルジェの繁栄は海域でのキリスト教連合艦隊艦からの強奪と、スペイン人とイタリア人の捕虜への身
代金によるものでした。
ミゲルが持っていた推薦状は、帰国の際に過去の罪への恩赦の申し立てと、特権業務に携われる目
的でしたが、その推薦状が原因となり、アルジェでの捕虜の身となってしまいます。奴隷市場で売り飛ばされるという煩悶からは逃れるものの、セルバンテスが
重要人物であると思われたことにより、身代金500エスクードを要求しました。弟のロドリーゴも、同じ遭遇でしたが、彼への身代金は300エスクードでした。
アルジェでの囚人生活を反映させた作品 喜劇『Los baños de Argel』 や 戯曲『El trato de Argel』
には、コルシカ島の社会情勢、アルジェの政治・社会組織や、イスラム教徒の特徴、あるいは非常に興味深い側面である開放的社会が描かれています。コルシカ
島民とキリスト教徒が争うことなく円満に共存していたさまなどを事細かく書かれています。また左手の不自由だったセルバンテスは特別待遇を受けて町の中を
歩くこともできたということもわかります。
莫大な身代金を到底家族が集められないと考えていたセルバンテスは逃亡計画を練ります。1576年、何人かの囚人と逃亡を図りますが、オーランに向かって道案内をしていたモーロ人が怖じけづいて、途中で彼らを置き去りにし逃げ去ってしまったために、捕まえられて再びアルジェに戻されてしまいました。その年の4月、父ロドリーゴは、逃亡によってさらにあがった身代金を集めよう駆けずり回っていましたが、果たせませんでした。王立カスティージャ審議会[YUN5]へ経済援助申請をしますが、拒否されます。家族が絶望の窮地に陥る中、母レオノール・コルティーナは、未亡人であると偽り十字軍審議会に身代金の申請をし、12月16日
に貸付金を受け取ります。しかしながら、身代金は更に跳ね上がり、払った後でも、セルバンテス兄弟は解放されません。逃亡をあきらめていなかったセルバン
テスは、家長制社会制度の長男の全特権放棄を宣言し、弟のロドリーゴが解放されるように手はずを整えます。またその際にロドリーゴを乗せたフリーゲート艦
によって、パルマの海岸近くの洞窟に長いこと隠れていた何人かの軍人を帰国させる事を計画しました。しかし、この計画を知ったキリスト教徒からイスラム教
徒に改宗したエル・ドラードと呼ばれる者が、ハッサン王に告げたために、洞窟の逃亡者たちは捕まり、そうしてセルバンテスは彼特有の勇敢さで、首謀者は彼
であり、全責任は彼に属すと宣言します。その罪は首吊りの刑に処されるに値するものと考えられていましたが、セルバンテスは5ヶ月間の地下牢獄への投獄に終わりました。ロドリーゴは1577年半ばに帰国を果たします。
1578年3月セルバンテスは再び逃亡をたくらみました。アルジェの西のオーランにいた影響力ある人物にセルバンテスと何人かの著名人の解放を申請する書状を、一人のモーロ人に持たせるものの、途中でモーロ人は捕えられて死刑にされ、書状にサインしたセルバンテスは、2000発の棒たたきの罰に処されました。こうして何度かの死刑を逃れていたセルバンテスでした。
弟のロドリーゴはカスティージャ王国審議会へ兄の解放要請協力を申し出るものの、拒否されてし
まいます。家族の経済状態は悪化する一方で、セルバンテスの身代金を集めるほかに、前回の十字軍審議会からの貸付金返済期間を延長することにも力を注がな
ければなりませんでした。
セルバンテスは捕虜の身であったものの、イスラム教徒からは厚遇を受け、さらにイスラム教徒に
改宗して新しい人生を歩まないかとの提案まで受けるに至りました。それでも、彼はキリスト教徒であることを放棄することは考えもせず、祈り、詩、そして友
情を思い出しながら、牢獄生活に耐えていました。
1579年11月三度目の逃亡は失敗に終わります。60人の著名人の囚人を12隻
のアルジェ船にてスペインの沿岸にたどり着く申請状を準備していました。ところが、そのリストに加えられなかったエストレマデューラ出身のドミニコ会フア
ン・ブランコ・デ・パス神父は、アルジェのハッサン王に密告し、再びセルバンテスは全責任を負ったのでした。この際には首吊り処刑におどされたものの、5ヶ月間の投獄に終わりました。この特別待遇はハッサン国王とセルバンテスとの相互理解の恩恵からとも考えられます。そうして身代金を払う条件で、解放される約束事も得ます。
トリニダード修道士会の財務管理司祭であったフライ・フアン・ヒルが、1580年5月にアルジェに到着します。セルバンテスの母のレオノール・コルティーナによって払われた280エスクードと、助成金によって払われた220エスクードにより、同年9月についにセルバンテスは自由の身となります。
帰国の途に着く前に、ドミニコ会フランコ・パス神父によって着せられた濡れ衣を晴らそうとしま
した。この神父は以前にもミゲルが海賊たちとの共謀関係を持つという偽りを言いふらしたのですが、審議会はミゲルの囚人期間の調査をしますが、神父の偽証
は明らかにされな
いままとなります。1580年10月27日、セルバンテスを乗せたスペイン艦艇はアリカンテの北に位置するデニアへと到着しました。
ミゲル・デ・セルバンテスの生涯 後編
PUENTEFUENTE
2005年4月
ミゲル・デ・セルバンテスの生涯後編時代背景
1580年
ポルトガルと合併したスペインは中南米、ドイツ、オランダ…と広大なる領土を持っていましたが、イギリスの女王エリザベス一世の英国がヨーロッパにおいて
勢力を広げる時代で、スペインにけしかけ、独立発起が高まっていたオランダに援助派兵します。フェリーぺ二世スペイン国王は、この年の5月、スペイン領土の港に停泊しているイギリスの船舶を全て取り押さえる命令を下します。9月にはイギリスの航海軍人フランシス・ドレークが、カリべ海スペイン領域を次々と襲撃している事を知ったスペインは、イギリスに侵略計画を立て、130隻の軍艦と約3万人の兵士の準備にかかり、1586年10月に無敵艦隊は出航する予定でした。
予定を遅れること1588年5月20日無敵艦隊軍はリスボンを出港し、ラ・コルーニャに停泊後、7月21日に再び出港し、一週間後にフランスの北イギリス海峡に到着します。結果はご存知のように無敵艦隊の惨敗に終わります。エリザベス一世女王は、後の海域での制覇のために無敵艦隊軍艦の全滅をもくろんでいましたが、その半分にあたる67隻は無事スペインに帰国します。1600年イギリスは東インド会社設立。日本では関が原の戦いで勝利を収めた徳川家康が君臨する時代で、1609年オランダ人は平戸に商館を開きます。
帰国
1580年10月27日セルバンテスと他の解放された5人
の捕虜を乗せたスペイン艦艇が、バレンシア州デニアに到着します。三日後にバレンシアに到着したセルバンテスは、人々の厚い歓迎を受けます。家族が待ち受
けるマドリードに着くのはその一ヶ月後でした。セルバンテスは身代金を返済するためにカスティージャ審議会に助成金を申請する手続きをしたり、カスティー
ジャに戻る前に、イタリアへ渡るきっかけとなった負傷事件で、無事マドリードに戻れるか否かを確かめなければなりませんでした。
バレンシア滞在中に文学界の風潮、傾向などを観察をしながら、ロペ・デ・ルゥエダの喜劇の出版元であったティモネダ氏に頻繁に会いに行きます。
12月
には終にマドリードに到着し、家族との再会は感極まるものでしたが、家族の境遇はセルバンテスが想像していた以上に窮するものでした。父のロドリーゴは外
科医を辞め、借金だらけの聾者となり、二人の娘の将来の不安に苦悩していた母は、息子の救出のための嘘言に苛まれ、弟ロドリーゴは、両親のために再び軍人
生活に戻ってアルバ公爵の部隊に出陣していました。
セルバンテスはイタリアでの軍事功績によって、カスティージャ審議会から特別手当てを受ける交渉しますが、拒否されます。セルバンテスが帰国した
時代には、手柄を挙げた軍人は沢山いましたので、考慮の対象とはなりにくいものだったようです。王室審議会へ申し立てするものの、その時にはすでに、フェ
リーぺ二世国王はポルトガルへと移住した後でした。
1580年スペインはポルトガルと合併し、セルバンテスは招集されたポルトガル宮廷都市リスボンに向かいますが、当時植民地であったアルジェリアのオーランでの1581年6月一ヶ月間という出向任務しか得ることが出来ません。任務を終えオーランからムルシアのカルタヘナに着いた足で直ぐに、フェリーぺ二世の住むリスボンに向かい、その年の暮れまで過ごします。
マドリードに戻ったものの、セルバンテス家の経済の逆境はかわらないままです。後に『ラ・ガラテア』創作過程で顧問となる師匠の劇作家ロペス・
デ・オージョスとの交流を再びし始め、また旧友の文学者たち、ペドロ・ライネスやフランシスコ・デ・フィゲロア、ペドロ・デ・パディージャ、フアン・
ルゥッフォ、旧友のガルベス・デ・モンタルボ、イタリアの軍隊戦友であったマルドナードやその他の抒情詩人たちからも暖かく迎えられます。セルバンテスは
小説の屈指の作家であるという評価が一般的であり、詩の世界では、ペトラルカやガルシラソの支流を行く詩人としか見なされていませんでした。この文学界の
小説への評価は、『ラ・ガラテア』を仕上げる励ましとなったともいえます。
この期間に羊飼いがテーマの『ラ・ガラテア』を書き始め、再び青年期に味わった詩への世界の憧憬がよみがえるセルバンテスです。
セルバンテスは中庭劇場の戯曲を書いては売っていました。生活の糧として喜劇を書き、満足していましたが、それでも平衡して牧人小説を書き続けます。
1583年夏に『ラ・ガラテア』を書き終え、1584年6月にブラス・デ・ローブレスに120デュカドで原稿を売ります。セルバンテスがローマで奉仕したアクアビーバ枢機卿の友人であったアスカニオ・コローナ氏が出版援助後援者となります。全六巻の予定であった、『ラ・ガラテア』の第一巻は、マドリードで1585年春に刊行されます。作品は大衆に受け入れられ、5年後には第二版が出版されます。二十数年後にフランスにて高い評価を得ることになりましたが、『ドン・キホーテ』の成功の後に発行される1611年まではその賞賛は聞かれることがありませんでした。マドリードの作家たちの間でも好評で、ロペ・デ・ベガも賞賛しました。セルバンテスは何度か、第二巻の予告しましたが、結局出版されずに終わります。
戯曲『ヌマンシアの悲劇』と『アルジェの条約』
仕事を得ることができなかったセルバンテスは、生活費を得るために戯曲の世界へと踏みこんでいき
ます。幼い頃からの憧れであった劇作家ロペ・デ・ルゥエダ劇団の公演以来、マドリードで定着し頻繁に場所を変えては上演する悲劇移動劇団でしたが、コラル
と呼ばれる庶民共同住宅の中庭の常設劇場にて上演されるようになります。ラ・クルス中庭劇場の開館に積極的に貢献したアロンソ・へティーノ・デ・グスマン
の紹介でセルバンテスは劇場世界へと入っていきます。また親友でもあったトーマス・グティエレの無償的な多大なるはからいで劇作家たちの間でもセルバンテ
スの作品が評価されるのにもそう時間はかかりません。
1585年、『コンスタンティノープルの条約 EL TRATO DE CONSTANTINOPLA』 と 『LA CONFUSA』 の戯曲を売り、40デュカドを得ます。この時期には20点以上の喜劇や悲劇を書き下ろします。(和訳『スペイン黄金世紀演劇集』 牛島信明/編訳 名古屋 名古屋大学出版会)その中には『LA NUMANCIA(ラ・ヌマンシア)』 『LA GRAN TURQUESA(偉大なるトルコ婦人)』 『EL BOSQUE AMOROSO(愛の森)』 『LA ÚNICA(唯ひとつ)』 『LA BIRARRA ARSINDA(勇
敢なアルシンダ)』などの作品も含まれていました。この中で『ラ・ヌマンシア』と『コンスタンティノープルの条約』のみだけ残されています。 『ラ・ヌマ
ンシア』は、奴隷社会となった村落で、奴隷になる前に死を選んでしまう悲劇の村を描いています。『アルジェ条約』では、全体的な構成に手落ちがあるといわ
れていますが、実体験を元にした捕虜時代の辛い感情が反映されている自伝であると察することのできる物語です。
恋に落ちる
37歳のセルバンテス
は、すでに世に知られた作家でした。彼の戯曲は成功を収め、食いつなげる状態ではあったものの、アルジェの身代金返済可能までは到底及ぶものではありませ
んでしたが、セルバンテスの母レオノールはアルジェとの貿易事業収益で、莫大なる借金を全て返済したのでした。
この年の初めに、セルバンテスは既婚者であったアナ・デ・ビジャフランカと恋愛関係に落ちい
り、娘のイサベルが生まれます。三角関係に我慢できなかったセルバンテスはアナを独占したいと願いますが、アナは夫と離別の決断もつかず、イサベルが生ま
れてまもなく、業を煮やしたセルバンテスは、マドリードを去り、トレド県のエスキビアスへと移住します。娘イサベルは、当初アナの夫の苗字を名乗っていま
したが、この夫の死後、セルバンテスのサアベラと名乗ります。
エスキビアスには、友人の故ペドロ・ライネスの未亡人フアナ・ガイタンが住んでおり、セルバン
テスは、ペドロの遺作詩を発表する目的で尋ねました。ペドロの死後、カルロス皇太子の待従と再婚した未亡人は幸せに暮らしており、訪問したセルバンテスを
歓迎しました。社交家の彼女の家には、沢山の友人たちが出入りしており、その中には、セルバンテスの妻となるカタリーナ・デ・パラシオがいました。カタ
リーナは当時18歳でしたが、未亡人になったばかりでもありました。1584年12月
聖マリア・デ・ラ・アスンシオン教会で挙式を挙げます。結婚して妻の実家サラサル家で同居生活をはじめます。マドリードの喧噪とは全く異にする静寂なるエ
スキビアスの村で、セルバンテスは書くことに没頭しました。村で起こるなんと言うこともない日常生活の些細なことを書きとめます。これが後にサンチョ・パ
ンサの妻のテレサ・パンサの口から語られるものであると、読者は予測できるのでした。
しかしながら、セルバンテスは、完全にマドリードから遠ざかったわけでもなく、『ラ・ガラテ
ア』 の出版やマドリードの家族に新妻を紹介するためにマドリードへと出かけます。この年に父ロドリーゴが他界します。この時期には何度も旅を繰り返しま
す。トレドやセビージャにも金銭的な理由からの滞在をしたとも語られています。
翌年1586年8月にエスキィビアスに戻り、結婚前の約束事であった、カタリーナの結婚持参金を受け取り、彼は100デュカドを加えます。義母の頼みで、カタリーナの実家の財産管理人を引き受けますが、1587年には家を出て、5月はじめにはセビージャで生活をしていました。
セビージャ 食糧徴発官
カテドラルに隣接したバジョーナ通りにあった高級宿泊所の主でセルバンテスの友人の喜劇曲作家トーマス・グティエレスは、9月の食糧徴発官任務開始までセルバンテスを招待しました。この食糧徴発は英国を侵略するスペイン無敵艦隊軍のためでしたが、一日たった12レアルという少ない報酬であったため、何の支援もないセルバンテスの徴発手段は手荒いものとなっていました。
はじめの徴発地は、セビージャから西へ約93キ
ロのエシッハでした。その年には収穫が少なかったうえに、その当時は農作物を収めたところが、支払いが何ヶ月も遅れるのが常であったこともあり、農民は小
麦を納めることを渋がり、なかなか簡単には収めません。行く土地ごとに拒絶されたため、セルバンテスは小麦を押収することにし、その結果セビージャの司教
総代理から、即座のカトリック教会からの破門を言い渡されます。徴発執行長官代表ディエゴ・デ・バルディビアの即座の交渉対応で徴発予定の小麦を地方当局
が徴発することに同意され、セルバンテスは難を逃れます。そして、バルディビア執行長官代表とともにコルドバの田園地方のラ・ランブラに移り、その村で単
独で食糧徴発活動をするものの、収めない者には逮捕や投獄というような手荒い抑圧的手段を持ちいなければならなかったほどです。
このようにしてコルドバ県のあちらこちらの村を巡っていたセルバンテスは、再びキリスト教会からの破門をたたきつけられるのでした。それはコルドバの司教総代理でした。
クリスマスとなり、セビージャに戻ったセルバンテスは、忠実に任務していたにもかかわらず、予
定されていた徴発量を得るこができなかったものの、バルディビア官の祝辞を黙って受け取ります。マドリードから流れてくる、著名詩人ロペ・デ・ベガについ
てのたわごとや噂話を聞きます。そうしてリスボンで待機していたスペイン無敵艦隊の出航は遅れていました。
1588年2月22日執行長官からセルバンテスがコルドバなどで行った積極的な徴収業務の功績をたたえる祝辞とその報酬として新しい任務に携わる書状が届きます。
新しい旅の日々が始まります。この際には農民から油を徴発する任務でありました。この農民たち
との接触により、彼らの日常生活に深く触れることとなります。様々な出会いの中で観察していたことが、後に『ドン・キホーテ』や『模範小説集』に書き綴る
材料となります。
セビージャに戻り、給金を得ることもなく、農民たちに払う返済金は12万マラベディにまでに膨れ上がっていたときに、5月1日の義母カタリーナ・デ・パラシオの訃報が届きます。義母はセルバンテスが一家を置き去りにしたことを恨みに持っていて、溜まりに溜まった借金約20万マラベディを遺産としてセルバンテスの負担にして亡くなりました。
そうして新しい徴発委任状を受け取り、6月中旬にエシッハへと出向きます。それからマドリードに徴発の援助金の入金通知が届きますが、セルバン
テスの借金の解決には到底及びませんでした。借金返済不能のセルバンテスに対して腹を立てた農民や納入業者たちとの対立、助手の維持費、前の年に徴発した
小麦を、セルバンテスの管理の悪さから損失したことなど、日に日に心配事が彼にのしかかっていました。さらに、裕福な農民たちはセルバンテスを横領の罪で
訴えますが、この件に関しては、後にセルバンテスが正しく徴発していたことを、農民が認めることになりました。
スペイン無敵艦隊が英国に勝ったとうわさが立ちますが、巷では慎重にあまりこのことに触れない中、セルバンテスは勝利のオード詩を書きました。しかし、後に散々たる惨敗という事実を知った彼は、愛国的なオード詩を書き上げます。
1589年の初頭、実施されていた徴発会計監査のために、上役たちがマドリードに出廷していました。セルバンテスは6月までにセビージャとエシッハの間を食糧徴発の旅を続けていました。
セルバンテスが6月以降セビージャで資金操作をしたことが知られていますが、それはどうやら彼の賭け事好きからの原因で発したもののようです。
アメリカへの夢再び
セビージャのグアダルキビル川のほとりにいたセルバンテスは旅の生活に疲れきった様子で、妻の住むトレド県エスキビアに戻るか、または姉のいるマドリードに行くか、決めかねている間に、1590年5月
妹のマグダレーナの仲介を通して現・コロンビアのカルタヘナ・デ・インディアスにてガレー船の会計士か、又はボリビアのパス市の徴税官に就任する申請を新
大陸アメリカ審議会に送ります。この際初めて、第二苗字にサアベドラと書き込みました。この苗字は彼の祖先から取ったもので、後々何人かの彼の作品の人物
にもつけられています。
[貴殿にふさわしい任務をスペインでお探しください]と断定的な拒否の書状を受け取ります。
徴発作物の借金の決算のための代金が入らなかったため、訴状を送ったことで即刻マドリードに召集され、徴発会計報告義務の命令が下ります。公金横領で解任されたゲバラ官に変わってペドロ・デ・イスンサが就任し、1591年セルバンテスはハエンに派遣されます。徴発の際にセルバンテスの助手が一人の農民を侵害したことで、農民はイスンサ上官に直談判し60万マラベディを請求します。責任者と考慮されたセルバンテスはこの農民が起こした訴訟の弁護準備をしなければなりませんでした。
マドリードからセビージャに戻ってきてから9月末にコルドバから南西に40キ
ロに位置するカストロ・デル・リオに向かいます。マドリードでセルバンテスの元上司であったゲバラ上官は、判決が下る前に死亡し、ゲバラの助手たちは首吊
りの刑に処されます。セルバンテスはエシッハの徴税管理人の命令で投獄されることになりますが、上司であったイスンサはセルバンテスの後ろ盾になり、出獄
させ、二人はマドリードへと出頭します。セルバンテスは、全ての責任は彼にありと告白し、一方イスンサは、訴えられた罪にさいなまれて、間もなく亡くなり
ます。戦争審議会は、セルバンテスの事件については、セルバンテスに支援し、セビージャにまた戻ることができて新しい任務に就く1593年夏までとどまります。
その年の暮れになる前に、セルバンテスの母が他界します。母レオノ-ルは亨年73歳、娘と裕福なイタリア人の婿と安穏な日々を送り始めた時のことでした。
1594年6月にスペインの食糧徴発キャンペーンは終わり、徴発会計の決算も済んで、セルバンテスは妻カタリーナとともにマドリードに住んでいました。この時期には、様々な雑事に追われて執筆活動は停滞気味で、『模範小説集』の中の何作品を書きました。
1594年8月グラナダでの延滞納入税金250万マラベディの徴税任務の話が持ち上がり、セルバンテスはスアレス・デ・ガスコンという人物の連帯保証と、彼と妻の資産も加え、12月にはアンダルシアへと向かいます。グラナダ地方を巡り歩く間グラナダ市内で観察したモーロ文明との共存社会や、どこか怪しげな遊牧民の集落の生活などに魅了されます。
セルバンテスの納税金集めは、モテゥリルに到着するまで何の問題もなく、納税者たちは国庫に納
入済みの領収書を提示していました。しかし、セルバンテスは延滞金を受け取るようにと命令されます。この矛盾はどうやら国庫が出金を避けるための策略だっ
たようでありました。
マラガ県のロンダやべレス・マラガの町においても問題にぶつかります。セビージャに到着し、集めた税金13万6千
マラベディを金融取引業者シモン・フレイレに預けます。そうしてトレドに着いたときに初めて、フレイレが破産したことを知らされ、急いでセビージャに戻
り、数々の複難な手続きを済ませて、国庫に納入する分は取り戻せたものの、一緒に預けた彼の給料は取り戻すことができませんでした。後々セルバンテスの最
終報告書を受け取っていなかった国庫は、べレス・マラガでの徴収金8万マラベディスを強制的に請求します。このようにして、1597年9月セビージャ裁判所はセルバンテスに出頭命令を下し、勘定決算義務を言い渡します。返金ができないならば牢獄入りでした。
担当裁判官は250万の返済金と言い下しましたが、現実にはそのほんの一部がセルバンテスの負担金でありました。そうしてセルバンテスは、セビージャのレアル刑務所に入獄します。
この当時のセビージャは、王国でも一番の人口密集都市でしたが、反面こそ泥から極悪非道の男た
ちの溜まり場でもありました。このような環境の中、セルバンテスは、やくざ的なごろつき生活の世界を現実的に精確描写します。牢獄生活は、ほかの囚人との
共同寝室や栄養が偏った食事の繰り返しでした。アルジェでの牢獄では、日々の生活の中で何かかにか得るものがありましたが、セビージャでは、単に罪の償い
をすることしかなかったのです。そうして、セルバンテスはフェリーぺ二世国王に彼の刑罰に至った誤解を記した書状を出します。1597年の暮れ、国王からの命令を受けた判事は、セルバンテスを解放します。
この何ヶ月間の牢獄生活に、セルバンテスは、後に『ドン・キホーテ』となる物語の構想をしていました。1598年は、セビージャで年がら年中一文無し状態ですごします。この年フェリーペ二世国王も亡くなります。
ドレーク率いるイギリス艦軍は、アンダルシアのカディス[YUN10]で略奪をし、みすみすと盗まれるスペイン無敵艦隊の防御の足りなさを皮肉ったソネットを書いています。セ
ルバンテスのソネットの中でも有名な『セビージャのフェリーぺ二世国王の墓』では、国王に対しての尊敬と憎みの両面を巧妙につづりました。この詩は、国王
の葬儀の詩でもありましたが、国王が行った経済対策と軍政の失敗への批判や皮肉も込められていました。
トレドへ 『ドン・キホーテ』執筆
10年の浮き草生活の後、1600年の夏ペストがアンダルシア地方に蔓延し始めた頃、セルバンテスはトレドへと向かいます。到着した時、弟ロドリーゴの死の知らせを受けます。弟ロドリーゴは、10年間軍人生活に捧げたにもかかわらず、陸軍少尉の位を超えることはありませんでした。
8月には、遺言状執行官の役を義弟フェルナンド・ダ・サラサルから譲り受けます。その翌年、7年前の事実無根のべレス・マラガの徴税金8万マラべディを国庫は請求してきます。この年にはフェリーぺ三世の王宮廷がバジャドリードに移されます。義弟が残した遺産によってセルバンテスは、マドリード、トレド、エスキビアスの滞在中に『ドン・キホーテ』の執筆にかなりの時間を費します。
貴族たちの間で名声を得ていた裁縫職を営んでいた姉妹たちは、宮廷がバジャドリードに遷る際に一緒に移動することにし、セルバンテスはエスキビアスで、『ドン・キホーテ』の最終的な仕上げに没頭し、1604年にバジャドリードへと移ります。
バジャドリードでセルバンテスは出版者のフランシスコ・デ・ローブレスと出会います。マドリー
ドと肩を並べるほどの繁盛都市の当時のバジャドリードは、人口が密集し、特に住民の大部分が勤労年齢だったことが注目されます。宮廷の移動によって人々は
次々とバジャドリードに流れ込み、郊外住宅地帯が生まれたのもこの時期です。その一画にセルバンテス家は住み始めます。やがてマドリード、トレド、エスキ
ビアスからの親戚や知人までやって来て、共同生活の居心地悪さもありましたが、セルバンテスは唯一『ドン・キホーテ』の出版準備に没頭してたため、他に起
こる身の回りの出来事には全くもって関心がありませんでした。
バジャドリードでセルバンテスは文芸サロンの人々とも交流をします。その中には古くからの友人であるグラシアン・ダンテスコ[ルイス・デ・ゴンゴラ]*や、その当時大学生だったフランシスコ・ケベードなど、バジャドリードは押しも押されぬ芸術文化の都でありました。
スペイン黄金文化時代を代表するロペ・デ・ベガは新喜劇で大成功を収め、劇上演は王室法令で公
認されていた上、絶え間なく上演される劇場は満員御礼で、市庁と劇団は相互利益を上げていました。ロペ・デ・ベガとセルバンテスは、知り合った頃には関係
も良好でしたが、1604年にはすでに有名な流行劇作家であったロペ・デ・ベガは、セルバンテスと『ドン・キホーテ』を歯に衣着せぬ批判をします。未発表の『ドン・キホーテ』は、この批判によって、逆に巷の読者の期待と興味をおおいに促すものとなります。
そうして1605年1月上旬に『ラ・マンチャの才覚郷士ドン・キホーテ』は発売されます。
『ドン・キホーテ』を書き終えたものの、セルバンテスは出版に至るまでの援助を必要としてまし
た。不安定な生活を繰り返したため途中で創作を止めたり、最終的な校正を終え、再三の照らし合わせの後でも、ところどころに未完な部分が残ったり、前後の
筋書きに矛盾が生じたりしていました。出版者のフランシスコ・デ・ローブレスは、約1500レアルで、セルバンテスから原稿を買い取り、出版のための王室認可証を9月に得て、フアン・デ・ラ・クルスは印刷に携わり、ムルシア・デ・ラ・ジャーナは、正誤表を制作します。全664ページの『ドン・キホーテ』は290.5マラベディの定価格がつけられ、販売部数目標は500冊でした。
この当時の文学愛好者の間では、騎士道物語は時代遅れのものと見なされていました。騎士道物語はカルロス五世が統治していた14世紀に大流行しますが、その後衰退は激しく、人生の理想主義を追いかける騎士道物語は16世紀の半ばの人々の関心を引かず、セルバンテスの時代にはほとんど読まれることはありませんでした。しかしながら、セルバンテスの書いた物語は、騎士道物語を土台とする風刺小説で、人々はゲラゲラと高笑いを上げながら読んでいました。19世
紀には、また別の見方がされ、近代小説の誕生と評価されます。自主性のある登場人物や物語の発展の巧みさの作者の器量は、過去においての見せ掛け繕い社会
観を打破するのに十分に効果があったわけです。セルバンテスは、大衆が求めることと、大衆と分かち合える共感がどんなものであるかということを心得ていま
したし、また彼らが求めていた期待に応える術を知っていました。
ほんの少しの期間で、スペインの至る所隅々で 『ドン・キホーテ』は愛読され、第二版が発行されるまで二ヶ月しか掛かりません。この大ブーム人気は、4冊の海賊版まで登場する結果となり、リスボンやバレンシアで著者や版権下に代金が入らない海賊版『ドン・キホーテ』が巷に流れたことから、版元のローブレスは、4月に独占著作権を国に請求し与えられます。セルバンテスとローブレスは非合法出版元を告訴する手続きをしました。発売から3ヶ月という期間で、『ドン・キホーテ』は史上にも類を見ない部数を売りまくります。
才覚郷士の評判はイベリア半島のみに収まらず、新アメリカ大陸にまでその名声は広がります。1605年2月と4月にはセビージャから、新アメリカ大陸へと運ばれ、メキシコ市には162冊、カルタヘナ・デ・インディアス(コロンビア)には100冊送られ、その年には何度もわたり運ばれます。『ドン・キホーテ』の初刷は1500冊でしたが、そのうちの20冊が全世界で保存され、一冊は、スペイン国立図書館にあります。
1605年4月、後にフェリーぺ四世となる皇太子が宮廷と大衆の喚起の渦の中バジャドリードで誕生します。セルバンテスはこの誕生の翌日に皇后に捧げるバラードを書き上げ、このバラードは『模範小説集』の中の『GITANILLAジプシーの少女』の主人公プレシオサが歌います。
ヨーロッパ各地から誕生の宴に招待客も呼ばれます。その中でも際立った人物はイギリス外交官であり、9年
前にカディスの港でスペイン艦隊から略奪を行ったイギリス海軍大佐の、ハワード卿もいましたが、お祝いの席での過去の恨みは忘却の途についたようです。祝
宴の席でセルバンテスの作品を紹介したことにより、ハワード卿が英国に戻ってすぐに『ドン・キホーテ』の英訳が発行されることとなりました。
『ドン・キホーテ』ほど何世紀に渡り多くの画家たちに創作意欲を掻き立てる小説はありませんでした。17世紀の後半から今日にまで至る400年の間にたくさんの画家たちがドン・キホーテを描いています。
、英国においては18世紀に入ってウィリアム・ホガースを代表とする挿絵本も出され、スペインでの最初の挿絵本は1664年です。ヨーロッパ、特にドイツやオランダでも物語の場面を取り扱った図版が挿し込まれます。17・18・19世紀における挿絵作者はホガース、フフト、ジョリ、アントニオ・カルニセロ、パレッ、ピネッリ、ゴヤ、グスターボ・ドレ、ドラクロア、ドーミエ、フォルトゥーニなどの名前が挙げられ、20世紀においてはサルバドール・ダリ、アントニオ・サウラ、プリエト、ミケル・バルセロ、フリオ・ゴンサレスといったスペインを代表する芸術家たちの作品の挿絵も加えられました。
1605年6月27日のことです。セルバンテス家の門前に負傷をおった貴族のガスパール・デ・エスペレテがいました。この紳士は38歳のときにアラゴン国王に仕え、サンティアーゴ騎士団に属し、1604年までフランドルに派遣されていましたが、バ
ジャドリードに戻ったエスペレテはカスティージャ審議会に援助を求めては不規則な生活を続け、王室裁判所書記官の妻であったイネス・エルナンデスと愛人関
係を保っていました。その事件の夜、負傷者の叫び声を聞いたセルバンテスは、何人かの隣人と、救援に飛び出します。立ち会いの医者は、手の施しようがない
負傷診断を告げるのみで、司祭は死を前にしたエスペルテの最後の神への告白を聞いていました。レスレクシオン病院の前で、見知らぬ黒い服の男が襲ってきて
決闘になり、二刺しされたと言う被害者自身による証言を、ビシャルォエル市長は聞き取ります。エスペレテの召使は、妻を寝取られやけになった裁判所書記官
メルチョール・ガルバンが犯人であると言い切り、さらに一人の近所の女はガルバンを見たと証言しますが、市長はそれらの証言を完全に無視します。判事は、
捜査の焦点を被害者の倒れていた家屋の住人たちに絞り、住人たちの過去の犯罪経歴の洗い出しを行います。その頃、ものぐさで女たちに囲まれ、賭け事に勤し
む暮らしを送っていたり、過去の商売相手であったポルトガル人が入獄していた事実などから、セルバンテスに疑いが掛けられます。6月29日にエスペレタは死亡し、市長はセルバンテスを含めた10人の容疑者を入獄します。この不当な逮捕は長くは続かず、二日後には執行猶予の解放となり、7月18日には家宅拘留に終わります。
事件の捜査は打ち切られます。娘を捨てて家を飛び出したり、賭け事好き、胡散臭い商売に手を出す、という悪評のついていたセルバンテスでしたが、この事件で、さらに彼の噂はバジャドリードの至る所に流れ、しばらくした後にマドリードへと移住します。
バジャドリードを去る前に、海賊版『ドン・キホーテ』の出版元を告訴していましたが、結局ロー
ブレスは、海賊版元のバレンシア書店主と、販売収益権利を分け合うことになります。そんな折、ロペ・デ・ベガはセルバンテスと『ドン・キホーテ』に言及し
た噛みつくような下劣なバラードを書いてセルバンテスに送ります。この手紙については『パルソナ』にてセルバンテスは言及していますが、その時はセルバン
テスにとってロペ・デ・ベガの手紙よりも、気になっていたことは宮廷が再びマドリードに戻るという噂でした。
1606年バジャドリードを後にしたセルバンテスは、途中サラマンカを訪ね、エスキビアスで過ごした後、1607年マドリードに到着します。青年期に通った学校の近くに住まいを見つけ、しばらくしてアトーチャ地区に落ち着きます。
娘のイサベルは1606年に結婚し、娘をもうけます。しかし、1608年6月には夫に死に別れ、フアン・デ・ウルビナの援助で、モンテラ通りの家屋に住んでいました。再婚するまで、そう時間はかかりません。相手はルイス・デ・モリーナという裕福な40代
の男で、セルバンテスとも良い関係でした。その当時には結婚する際に花嫁あるいは花嫁の家族が、結婚資金としてかなりの額あるいは、動産不動産などを花婿
に与える慣習がありましたので、結婚する前には両家で、この資金のことや条件などについて話し合いがもたれました。イサベルの結婚時にもこの条件について
激しい話し合いが持たれ、義息子とセルバンテスの円満な関係にも濁りをきたします。結局イサベルは、離婚の際には少なくとも結婚資金の半分を得られること
に取り決めました。そうこうする内に、イサベルの夫と、どうやら彼女の愛人であったウルビーナとの間に金の絡んだいい争いが生じます。このような複雑なこ
んがらかった状況におかれたセルバンテスは、セルバンテスの名前を汚すのではないかと気をもんだり、また父親として娘のために尽くす気も失うまでになりま
す。さらに追い討ちを掛けるかのように再び国庫からべレス・マラガの徴収金70デュカドを1606年に返済強制する通達が届きます。そうしてセルバンテスは返済する義務のない理由を説明した書状を国庫に送り、どうやら説得がきいたようでそれ以来請求はありませんでした。
セルバンテスの妹マグダレーナは1609年初夏に聖フランシスコ教団に入会した後、姉のアンドレアと妻のカタリーナも同教団の第三会に入会します。そのときにセルバンテスは将来の不安を感じて、ほかの作家たちと同じように『聖体信徒団講社修道会』に入会します。
セルバンテスは作品の中では教会やその周囲の出来事に対し批判的な姿勢でしたが、彼より20歳若いロペ・デ・ベガとは違って、修道会の会則にのっとり忠実に生活を送っていました。
1609年10月
上旬に姉のアンドレアは熱病で亡くなり、その翌年孫のイサベルも亡くなります。この悲しい出来事がきっかけで、娘のイサベルと夫、そしてフアン・デ・ウル
ビーナの間で、再び言い争いが始まり、フアン・デ・ウルビーナはイサベル夫妻が住んでいた家屋の権利を主張します。仲介に入ったセルバンテスはこの件で娘
のイサベルと仲たがいになり、断絶状態になってしまいます。
ほんの短期間に次々と起こった不運な悲しい出来事の渦の中、セルバンテスは妻のカタリーナに温もりを求めます。このようにしてセルバンテスとカタリーナの夫婦は結束し、カタリーナは、遺言状に、セルバンテスが彼女の遺産で生涯生活できるように記します。1611年1月末に妹のマグダレーナも他界し、彼女がセルバンテスに残した僅かな遺産を放棄し、フランチェスカ修道会の規則により埋葬されます。この時期にはセルバンテスは窮乏状態で、エスキビアスへと向かい、1612年初めにマドリードへと戻ります。到着してまもなく、ラス・ムサス地区の共同中庭ラス・コラーレス近くのラス・ウエルタス通りに居を構えます。それからアルカラ・デ・エナーレスへ短期間の旅をし、妻と二人の姉妹が入っていた第三修道会へと入会します。
『一度も上演されることのなかった8つの喜劇と8つの幕間狂言』
アルカラ・デ・エナーレスから戻ってきて『模範小説集』が発刊されます。この時期は作家活動が
もっとも充実していた時期でした。『ドン・キホーテ』が世界においてドンドン人気を得ていたことは、その生みの親である年老いた作家セルバンテスとは、
まったくかけ離れた世界の出来事かのようでした。『ドン・キホーテ』がヨーロッパ中に広まる中、同時代の作家たちが集まっていた、パルソナ・アカデミーの
文芸サロンに出入りしながらセルバンスはほかの作家たちと討論したりして交流していました。
12短編小説で成り立つ『模範的小説集』 (NOVELAS EJEMPLARES和訳『セルバンテス短編集』岩波書店牛島信明訳)は1613年9月にフランシスコ・デ・ローブレスによって刊行され10ヶ月の間に4版まで、そして15世紀の終わりまでに23版
が刊行されるほど売れまくります。何年か前に辛辣なる批判をしたロペ・デ・ベガも、この小説の形式や内容の興味深さを認めます。そうして即さまイギリス、
フランスで翻訳がなされ読まれました。ヨーロッパ各地では、すでに書かれていた形式の短編小説でしたが、この『模範的小説集』 がスペイン文学では先駆け
といえました。
1614年には詩集『パルナソの旅』(El Viaje de Parnaso『ラ・ガラテア パルナソ山への旅』本田誠二訳 行路社)も刊行されます。この滑稽な放浪記は、時代の文学傾向には逆流するものと考えられていましたが、イタリア人作家のセサーレ・カポラリの作品『DEL VIAGGIO IN PARNASO』を模倣したものでした。この詩作品は3000の11音節行を8詩歌に分けられたものです。内容は私的物語を断片にして散りばめた物で、たくさんの友人詩人たちに言及したり、賛美したりしています。
1615年の夏に上演されるためではなく、読むための戯曲を書き上げ、出版元のフアン・デ・ビジャルォエルに売ります。9月には『一度も上演されることのなかった8つの喜劇と8つの幕間狂言』の戯曲集が刊行されました。喜劇作品に関してはほとんど評価を得ず、幕間狂言にほんの少しの話題になる程度で終わります。
『ドン・キホーテ』前編を出版したフランシスコ・デ・ローブレスは、続編を書きようにとセルバンテスを促します。一度冒険旅行から戻ったドン・キホーテを再度出発させることで、続編が始まります。72章にも及ぶ続編を4年間で書き上げたことは、この時代においてその速さに驚くべきものがありました。
1614年9月
にアロンソ・フェルナンデス・デ・アベジャネダという無名の作家が書いた『ラ・マンチャの才覚郷士ドン・キホーテ続編』が刊行されます。この続編はセルバ
ンテスが偽名で書いたものか、あるいは全くの別人が書いたものであったのか世間でははっきりとされていませんでした。この続編の中で、セルバンテス個人を
告発し、けなし、蔑み、セルバンテスは彼の生み出した作品によって散々に叩きつけられることになってしまいます。そして主人公のドン・キホーテやサン
チョ・パンサもあざけ笑われます。(参照和本『贋作ドン・キホーテ ラ・マンチャの男の偽者騒動』 中公新書 岩根 圀和著 中央公論社 1997.12』
そうしてセルバンテスは正真正銘の『ドン・キホーテ続編』において偽『ドン・キホーテ』に対し
て怒りを露にしませんでしたが、贋続編ががこけ下ろした【年老いた片腕男】に品位を取り戻させます。さらに、現実に世に出た贋作ドン・キホーテが虚構なの
か現実なのかということを強調しながら、彼の書き上げる虚構物語は創作されていきます。原稿を書き終え、2ヵ月後の1615年3月にスペイン全土において発行できる許可を得て、前編と同じ印刷工によって刷られた『ドン・キホーテ続編』は11月末に発行されます。待ち焦がれていた愛読者は、その発行に飛びつきます。
1615年、セルバンテスは刊行の準備に携わるほかは、教会団の奉仕に頻繁に出かけたり、病弱の体をいたわることに従事します。元愛人であったフアン・デ・ウルビナを告訴した娘のイサベルとは一切の交流もないままでした。
相変わらず貧窮生活を送っていたセルバンテスは、フランシスコ・ローブレスに『ドン・キホーテ続編』の原本を売ったお金で、最後の引越しをします。マドリードのウエルタス通りから、フランコス通り(現セルバンテス通り)とレオン通りの交わる角に居を変えます。そうして、前から構想を練っていた『ペルシーレスとシヒスムンダ』(『Los trabajos de Persiles y Segismunda』) 『ペルシーレスとシヒスムンダの苦難』 荻内勝之訳 国書刊行) を書き始めました。彼は死が近くに迫っているのを察して居たかのように、急いで8ヶ
月で書き上げます。それは死の寸前でした。この小説はギリシャの三世紀の小説から着想を得たものでした。発行された年に5版まで発行されます。即時にヨー
ロッパ中の国々で翻訳本が出ましたが、特に熱狂的に評価されたのはフランスでした。死が近づいていたセルバンテスは、俗世的傾向を見せていた聖体修道会を
脱会し、彼の妻や姉妹が属していた聖フランシスコ第三会[YUN16]に入り、1616年4月2日に修道誓願式が行われました。水病と肝硬変に虫食まれていたセルバンテスはペルシーレスの序文を口述した二日後の4月18日臨終にあたっての終油の秘跡を授けます。
1616年4月23日セルバンテスは、妻のカタリーナと、姪たちに看取られる中、息を引き取ります。妻カタリーナが遺言状の執行人となり霊魂の安息のための10回に及ぶミサが行われ、聖三位一体修道会院に埋葬されました。
1622年には姪のコンスタンサ、1626年に妻のカタリーナが他界し、最後のセルバンテスの子孫である娘のイサベルも1652年に亡くなります。セルバンテスの遺言は消えてしまい、唯彼の作品のみがこの世に残るのでした。
主要参考文献 セルバンテス協会、その他さまざまなスペインの新聞雑誌掲載記事から参照。
セルバンテス協会
セルバンテス協会は、1991年スペインにおいて創設され、スペイン語教育とともにスペインとスペイン語圏の中南米諸国の文化を広く世界に広めることを目的にした公的機関です。
本部はスペインのマドリードとアルカラ・デ・エナーレス。セルバンテス協会施設は四大陸にまたがります。
ニューヨーク(米国)、シカゴ(米国)、サン・パウロ(ブラジル)、アンマン(ヨルダン)、アルジェ(アルジェリア)、アテナ(ギリシャ)、ベイルート(レバノン)、ブレーメン(ドイツ)、ブリュセル(ベルギー)、ブカレスト(ルーマニア)、ボルドー(フランス)、カサブランカ(モロッコ)、ダマスカス(シリア)、ダブリン(アイルランド)、カイロ(エジプト)、イスタンブール(トルコ)、フェズ(モロッコ)、リスボン(ポルトガル)、ロンドン(英国)、マンチェスター(英国)、マニラ(フィリピン)、ミラン(イタリア)、ミュンヘン(ドイツ)、ナポリ(イタリア)、パリ(フランス)、ラバト(モロッコ)、ローマ(イタリア)、タンジール(モロッコ)、テル・アビブ(イスラエル)、テトゥアン(モロッコ)、トゥールーズ(フランス)、チュニス(チュニジア)、ユトレヒト(オランダ)、ワルシャワ(ポーランド)、ウィーン(オーストリア)
セルバンテス・ウェッブ・センターwww.cervantes.es
さらに協会施設を設ける予定で、そのうちのひとつは中国の北京といわれています。日本の東京も何年も前から候補地のひとつに挙げられています。
これらの施設では、スペイン語の授業が行われ、また世界的に最も認識が高く広いスペイン語能力試験初級・中級・上級D.E.L.Eも年二回主催しています。(日本でも実施)。スペイン語教育の改善推進と、教師のための準備教育、スペインおよび中南米アメリカ諸国の文化を広める企画展主催、および協力、図書館施設など。
puentefuente 2005年4月 セルバンテスの生涯 ©2005小田照美翻訳